フゥルの鉛筆画ブログ

鉛筆画のイラストや絵を中心に描いています。黒髪が大好きです。時々短編小説も書きます。

犬の娘 ショートショート

 憂鬱だ。ここのところ残業続きだったからだろうか。唯一同居していた家族が死んで一周忌なのも影響しているのかもしれない。急な別れでまともに別れの言葉すら言えなかった苦い記憶が、いまだに尾を退いているのも確かだった。
 とにかく、青年は鬱々としていた。だからこそ会社に体調不良の電話を入れた挙げ句、一年ぶりに裏山なんかへと足を踏み入れたのだろう。
 都市開発を逃れた山道を行く。住宅街の蒸し暑さとはうって代わり、涼しい風が木々の間を通り抜けている。繊細な小鳥たちのさえずりと、新緑の薫りはどこか現実離れしていた。
 額には汗が蝕み、ぬかるんだ傾斜に足の筋肉が早くも痛んできた。一年前からずいぶんと体力が落ちたものだ、と青年は苦笑する。
 突然、開けた場所に着いた。見上げるほどの木々たちに囲まれた広場。うっそうと生い茂った山奥であるにも関わらず日が当たっている。
 その中央に、それはいた。
 犬の耳を持つ少女。よく見れば目も犬のようにクリックリで、全身が毛におおわれている。しかし、四肢や胸の膨らみといった人間の面影も適度に残っていた。肉体は健康美に溢れ顔つきも愛らしい。犬と美少女のいい部分だけを抽出したような印象だ。
 恐怖よりも、好奇心が勝った。青年は思わず近づいて声をかけた。
 「おい、ちょっと君......」
 「わぅ!」
 犬娘がこちらを向き、嬉しそうに吠えるとこちらへと駆けてきた。青年はどうすることも出来ず、彼女の熱い抱擁を受け入れるしかなかった。彼女の腕が、体が自分と密着する。心地よく、滑らかなで、手に吸い付くような抱き心地。太陽の香りに混じりほんのり犬の臭いが鼻をくすぐった。
 「おい、こら止めろって」
 言葉に反して、青年は彼女の顔をくしゃくしゃに撫でた。犬の娘は無邪気な笑顔で尻尾をブンブン振っている。
 彼女の一切屈託のない表情に引きずられ、青年も自然と笑みを浮かべていた。
 「名前は?」
 「わん!」
 「話せないのか?」
 「わん!」
 「そうかそうか! よしよし」
 なぜだろうか。この異様な状況で、なおかつ初対面の相手なのにまるで何年も一緒に過ごしてきたかのような居心地のよさを彼女から感じる。彼女が何を考えているのかも何となくわかってしまう。
 青年が彼女の頭や体を撫でる度に、少女は嬉しそうな声をあげた。そのあまりの純粋無垢さに情欲すらわいてこない。彼女の顔は生命の輝きに満ちていた。青年は自分の歳も忘れ彼女と子犬のように触れあい、じゃれあった。
 気づいたときにはすでに、夕暮れになっていた。青年が声をかける前に、少女は青年から離れた。耳が萎れて、名残惜しそうに上目使いで見つめてくる。
 「う~」
 遊び足りない、とでも言いたげだった。
 「また、来るから。待ってて」

 別れてから数日間気が気でなかった。職場には復帰できたものの、早く彼女と会いたくてデスクの下で貧乏揺すりをするほどだった。しなやかな肢体、はつらつとした声、シルクのような肌触り、太陽よりも眩しい微笑み。あぁ、頭に思い描くだけで幸せになれる。
 青年は宣言通り、次の会社の休みの日に裏山を訪れた。
 彼女はいつも広場の真ん中で『待て』のポーズで座っていた。
 「待たせてゴメンな」
 声をかけた瞬間、四つ足で飛びかかり顔を舐めまくってきた。本当に、幸福そうに。
 「わふー!!」
 「わかった、わかったから。ごめんって。ほら、今日はこんなもの用意してきたぞ」
 青年はリュックから犬用のおもちゃを取り出した。投げ輪やボールなどなど......物置から引っ張り出したものだった。まさか再び使うときが来るとは。
 犬の少女はそれを見た途端、さらに興奮して青年の周囲を跳ね回った。
 「ワンワン! ワンワンワン!」
 ここまで喜ばれるとは思っておらず、青年は気恥ずかしくなった。結局その日も日没まで彼女と遊んだ。楽しいひとときはサッと過ぎ、お別れの時間がやって来た。
 「あ、あうぅ」
 夕日に照らされて、いっそう寂しそうな少女。
 「ああ......」
 口がパクパクさせながら必死に声を捻り出しているように見える。青年はもしや、と思い軽くうなずいて促した。
 「アッ......アリガ......トッ......トウ」
 赤かった空が藍色に包まれていく中、青年は彼女のふかふかの体を抱き締めた。強く、強く抱き締めた。すごい、すごいぞ! と何度も彼女に声をかけて撫でまくった。来週はひらがな表を持ってきて教えようか、それとももっと別の玩具を買ってこようか。青年の心は以前のように病んではいなかった。
 次の休みも、次の次の休みも、彼女と戯れた。かけっこしたり、ねっころがったり、毛繕いしたり、なであったり、キャッチボールしたり、文字を教えたり......。
 そうして一月が過ぎた頃。青年はいつものように、裏山の広場に来た。だが、彼女はいなかった。
 代わりに、地面につたない字が書かれていた。
 『あなたは もう だいじょうぶ』
 文字の回りに書き直した跡があった。いや、違う。広場のあちらこちらに努力の痕跡がある。中でも青年の目を引き付けたのは消し残しだった。
 『いきて』『ありがう』『いないても』『ひといで』『わたしが』『......』
 広場の端に首輪が落ちていた。首輪には今年一周忌になる青年の家族だった犬の名前が刻まれている。
 「......また別れの言葉を言いそびれた」
 青年は涙に濡れた手で、首輪を埋める。そして、文字を書く。届くかどうかわからない。理解してくれるかもわからない。でも、書かずにはいられなかった。
 『いままで ありがとう』
 風の中にほんのり犬の香りがした気がした。
 その後、青年はあの広場へ行こうと何度も試みたものの二度とたどり着くことはなかった。