フゥルの鉛筆画ブログ

鉛筆画のイラストや絵を中心に描いています。黒髪が大好きです。時々短編小説も書きます。

黒猫紳士旅行記譚

インク馬

 豪雨がレインコートを、打ち付ける。視界は最悪、足場も最悪。いくら名馬と言え、これ以上走行するのは無謀だった。騎手である黒猫紳士は、手綱を繰りつつ、目の前の少女に言った。

「あの洞窟で雨宿りするぞ」

 連れの少女は、こちらを振り返りうなずいた。

 

 洞窟の中は薄ら寒く、床は硬質。息を吸い込む度、湿気を帯びた冷たい空気が、肺を刺激する。けっして、居心地がいいとは言えなかった。

 二人は下馬すると、コートを脱ぎ始める。

 洞窟の奥から強烈な風が吹きつけた。少女のレインコートが、嵐の中へ消える。

「あぁ!?」

 黒い長髪とジャンパー、最後にスカートが露わとなった。スカートを隠そうとしなければ、コートが吹き飛ばされることもなかったろうに。

「この風雨の強さなら、致し方なしか」

 黒猫紳士は、鮮やかにコートを脱ぎ畳んだ。ダブルスーツの水滴をスカーフで拭うと、ポケットからインク瓶を取り出す。

「戻れ」

 黒い馬は、アメーバのように伸縮を繰り返した後、液状化。瓶の中へ納まった。

 黒猫紳士は瓶をしまおうとした。そのとき、少女のいぶかしげな視線に気づいた。

「ねぇ、あのお馬さん、乗り心地はよかったけど本当に安全なの? 途中でいきなり液体に戻ったりしない?」

 数日前に目撃した、馬車の事故現場が頭に浮かんだ。あの惨状を見た後では、未知の移動手段へ不信感を抱いても無理はない。

「怖がる気持ちはわかる。私も初めて乗馬した時は怖かった。手綱を持つ手が震えたよ」

 もっとも、それは事故への恐怖ではなく、馬の推定価格のためだったが。心の中で付け足しつつ、言葉を続ける。

「しかし、慣れしまえば最高の仲間だ。私はこの馬で十以上の街を回っている。もちろん、一度も事故を起こしたことはない。速いし安全。何より利口」

 インク瓶を少女に差し出した。受け取った少女は、瓶を下から眺めたり、コツコツ叩いてみたりし始めた。

 黒猫紳士は、その様子を眺めながらトランクを開けた。敷物や小型ランプを取り出しセットする。最低限の快適さが保証された頃、少女が口を開いた。

「水で溶けたりしないの?」

「油性のインクだから、水を弾く。万年筆と同じようにな」

「水性のインク馬もいるのね」

 黒猫紳士はあくびをすると、敷物の上に座った。マタタビを専用のパイプに詰めて着火。口に咥えた。くしを取り出し、顔から後頭にかけて毛を撫でる。

「お世話の方法は?」

「かんたんだ。コツは二点だけ。時折運動させること、定期的にインクを補充すること。それさえ守ればいい」

 少女がぶんぶんボトルを振った。呼応するかのように、瓶の中の液体が跳ね回る。

「欠点は三つ。一つ目は、馬形態の間、インクが体表から蒸発し続けていること。放っておくと干からびてしまう。もう一つは、しばらく使わないと固まってしまうこと。これは油性のインクならではの欠点だ。三つめは、魔力濃度が不安定な所では、すぐ息切れすること。この三点さえ気を付けていれば、多少の事では──」

 突然の雷が、会話を遮った。

「ひっ!」

 少女は驚きのあまり、手を開いてしまった。

 瓶は弧を描き地面に落下。尖った石に激突。ばらばらに粉砕。中のインクが四散した。

インクは地面をのたうちまわりながら馬に変化。そのまま勢いよく、洞窟の外へ駆け出してしまった。

「ああ、インク馬が!」

 少女の叫び声がむなしく反響する。

 反射的に黒猫紳士は言った。

「深呼吸だ。まず落ち着いて──」

 黒猫紳士が話し終える前に、少女が洞窟の外に出ようとした。すかさず手を伸ばし、引き留める。

「落ち着けと言ったろう。この大雨では一寸先も見えん。無謀だ」

 少女は黒猫紳士の手を払うと、口元に両手を当てた。

「おーい! インク馬さん! 戻ってきてー」

 必死の叫び声は、雨音にかき消された。少女はしばらく考えたのち、黒猫紳士に提案してきた。

「万年筆のインクのにおいで、おびき寄せられない?」

「賢いな。以前逃げだした時は、この方法で戻ってきた」

「本当に!?」

 少女は予備の万年筆用のインク瓶を手に、久方ぶりの笑みを浮かべた。嬉々として、洞窟の入り口にインクを撒いていく。

 ひたすら待った。少女の表情は、最初こそ明るかったものの、次第に陰りが見え、最終的に真っ青になってしまった。今にも泣きそうである。

 雨はその間も、止むどころかどんどん強まっていった。

「戻って……こない」

「雨のせいで、匂いがかき消されたか」

「ねこさま、ごめんなさい。わたしのせいでこんなことに。もしかしたら、足を滑らせたりしているかも。どうしよう、取り返しのつかないことを──」

 少女の口に手をかざし、言葉を遮った。

「運が悪かっただけだ。君のせいじゃない」

 少女は頷くと、しばらく口をつぐんだ。

 重苦しい雰囲気が、狭い空間を満たす。最初に沈黙を破ったのは彼女だった。

「違う。やっぱりわたしのせい。わたしが酷いことを言ってしまったから、インク馬さんは怒っちゃったんだと思う。誰だってあんないい方されたら嫌よ。あらためてごめんなさい、あなたの友達に酷いことを言ってしまって」

 黒猫紳士は少女の元へ近づくと、優しく頭を撫でた。

「間違いは誰にだってあるさ。……疲れたろう。少し、休んだらどうだ?」

 少女は隣に座ると足を抱え、顔を埋めた。

 雨音に寝息が混じった頃。洞窟の入り口に黒いシルエットが浮かび上がった。

「起きろ、そして見ろ。きっと驚くぞ」

「えっ?」

 雨をかき分け、黒馬がゆっくりと入ってきた。雄大な足取りに、怒りや憎しみの感情は感じられない。

 黒猫紳士は、馬が口に咥えているものを見て、肩を上下させた。

「なるほどな」

 少女も、インク馬の異変に、気付いたらしい。

「わたしのレインコート! この雨の中、探しに行ってくれたの!?」

 インク馬は、少女の前でかがむ。視線を合わせ一礼すると、彼女にコートを差し出した。

「ありがとう、インク馬さん。さっきはあんなこと言ってごめんなさい」

 黒猫紳士は胸の高鳴りを感じ、声が少し上ずった。

「言っただろう? 私の仲間は何より利口だと」

 少女は、インク馬をハンカチで拭いながら、高いソプラノの声で言った。

「ええ! これからよろしくね、インク馬さん」

 インク馬は頷くと、万年筆用のインク瓶に帰っていった。

理想の旅館

 騎手は、手綱を振るった。しかし、馬はピクリとも動かない。長身の樹木と、朽ちた電柱に囲まれた、昼の山道での出来事である。

 騎手の体躯はスレンダーだ。シックなダブルスーツを着ている。腰のベルトに、黒猫を模した持ち手の杖を差していた。頭部にある耳は絶えず動いている。顔全体を覆う黒い毛は、彼の呼吸にあわせて波打っていた。凛々しく愛嬌のある顔は、どう見ても黒猫だった。

 その前方、黒い長髪の少女が座っていた。黒いジャケットが風になびき、白いシャツが見える。黒いニーソックスの上でスカートが踊っていた。釣り目に似合わぬ、幼さが残る顔つき。

 少女が背後の騎手に言った。

「インク馬さん、止まっちゃったね」

 ねこさまと言われた黒猫の紳士が答えた。

「どうやら、ばてたらしい」

「いつもの半分しか走ってないよ? インクもまだ、十分ありそうなのに」

「魔力の濃度が不安定なんだ。人間で言うと、酸素濃度が数メートルおきに変わるようなもの。まあ結論だけ言うと、私たちはこれから歩かなければならないらしい」

「そんなぁ。ヒッチハイクは?」

「山に入ってから誰一人としてすれ違ってないからな……」

 

 少女がしぶしぶ下馬したのを確認し、黒猫紳士はインク瓶を取り出した。

「ありがとう、戻れ」

 インク馬は、アメーバのように伸縮を繰り返すと瓶に収まった。

 黒猫紳士は瓶をポケットにしまい、歩き始める。渋っていた少女も、手を差し伸べると後に続いた。

 昔読んだ本によれば、このあたりにはかつて街があったらしい。だが、今は見る影もない。送電線も長い間、整備されていないようだった。切れて地面に垂れているものまである。

残念ながら、今夜も野宿するしかなさそうだ。

 疲れ切った黒猫紳士たちの前に、夕日に照らされた、立派な旅館が姿を現した。少女は手を振りほどき、前へ駆け出す。

「旅館! 風呂! 料理!」

「なぜこんなところに宿が」

 趣ある木造建築。玄関前の広場は綺麗に手入れされていた。

 黒猫紳士は、ひきつった笑みを浮かべ一歩踏み出す。そのとき、カツンという金属質な音がした。靴の下に倒れた看板。劣化が酷く文字は読めない。落石注意の看板らしい。

「まあ、野宿よりは宿の方が安全か」

 

 左右対称にソファーがいくつか置かれた、広々としたロビー。床に塵一つ落ちていない。人の手入れが隅々まで行き届いているようだった。

 早速、受付の女性に話しかける。薄紅色の和服をかっちり着こなしていた。

「部屋は開いているか?」

 黒猫紳士が聞くと、女性は少し不安げな表情を浮かべた。

「ええ、開いています。ただ、諸事情により一泊二日しかできないのですが……」

「問題ない。頼む。あと、旅行記を執筆しているのだが、この宿を紹介してもいいかな?」

 瞬間、受付の女性は満面の笑みを浮かべ、飛び跳ねそうな勢いで言った。

「もちろんです! ありがとうございます。館長もお喜びになるでしょう。あなたたちは久方ぶりのお客様です。本館職員全身全霊でもって、最高の宿泊体験を提供しましょう!」

 確認を取らなくていいのだろうか。黒猫紳士が疑問を口にする前に、連れの少女が、我慢できないといった様子で言った。

「お風呂は!」

「露天風呂がございます。今なら貸し切りですよ」

「やった! ねこさま、行こ! 行こ!」

「混浴もございます。部屋に荷物を置いたらお声掛けくださいね」

「やったよ、ねこさま!」

 黒猫紳士は、思わず立ち止まった。

「脱衣所は、男女別だよな?」

「あいにく、女性用の脱衣所は閉鎖中でして……」

 

 風呂場は控えめに言って豪華すぎた。これだけで旅行記の記事が、一本書けそうなほどだった。

 脱衣所からして、床が高級素材であるラタン。洗面所にはドライヤーや櫛、挙句の果てにはクリームから化粧水まで、各種アメニティを完備。部屋の隅には無人販売機があり、受付でもらえるコインを入れれば、無料で飲み物が飲める。タオル類も洗面台横に積まれており、『ご自由にお取りください』とのことだった。

 男女の仕切りが薄膜一枚であることを除けば、間違いなく最高峰。

「おかしい、あきらかにサービスが宿泊費に釣り合っていない。旅行記のネタとしては最適かもしれないが……」

「ねこさま、一度確認してきたら?」

 いったん外へ出て、偶然居合わせた職員に何度も質問した。

 小柄な女性職員は、とてもまじめかつ真剣に答えてくれた。

「オプションの代金は、先ほどお支払いいただいた代金に含まれています。これ以上、けっしてお金はいただきません。全てはあなたがたに、忘れようと思っても忘れられないような、最高の宿泊体験を提供するためです。お気になさらず」

 嘘はついていないようだった。が、熱意がどこから湧いてくるのか不思議だった。

「なぜ、私たちなのだ?」

 店のポリシーだろうか、と予想していたが見事に裏切られた。

「実は明日、閉館するのです。あなたたちは最後のお客さん。特別でないはずがありません」

「よろしい、ならば私たちも全力で楽しませてもらおう!」

 小柄な職員は涙をぬぐうと、どこまでも明るい表情で言った。

「自慢のお風呂、ご堪能くださいませ!」

 黒猫紳士は脱衣所に戻り、ダブルスーツを脱いだ。服にしわがつく心配は無用。ご丁寧にロッカーまで完備されていたからだ。毛づくろいしたい気分になったが、いったんこらえた。

「それより問題は……」

 仕切りの薄布に、少女のシルエットが映っていることだった。布と肌のこすれる音がして、どうも落ち着かない。

「ねこさま影が映って面白いよ! こっち見てみて!」

 タオルをバサバサする音。健康的でしなやかなシルエットに、嫌でも目が行く。たおやかな曲線の機微は芸術的とすら言えるだろう。いつかの街で見た石膏女人像と並んでも、遜色のない繊細さだ。

 と、ここまで妄想して黒猫紳士はため息をついた。スーツを脱ぐとすぐコレだ。

「人がいないからと言って、立ち振る舞いを変えないことだ。ふだんの立ち振る舞いが、要事の振る舞いを――」

「ふふふっ! ねこさまこそ、そんな上ずった声で礼節を説かれても説得力ないよ」

 黒猫紳士は一度深呼吸すると、バスタオルをまとった。

 

「なんだ、この広さは!?」

「すっごい! どっかのお城!? 夢みたい!」

 浴室には、数十人は余裕で入れる巨大な浴槽をはじめ、ジェット風呂、炭酸風呂、高音槽、薬湯、電気風呂、サウナ他さまざまな浴槽があった。書籍でしか見たことがないものばかりだった。

 シャワーはボタン式ではなく蛇口式。自分が望む水量を、惜しみなく浴びることができる。

「なんか、見たこともない風呂があるよ。ねこさま、これ、ボタンを押すと肩にお湯がブァーってかかって気持ちいいよ!」

「中性重炭酸風呂……こんなところでお目にかかるとは」

 読書をかかさず多様な語彙を身に着けた黒猫紳士ですら、『気持ちいい』しか言葉が出なかった。最高峰の浴場である。

 石造りの浴槽に身をゆだねながら、純白の月を見上げる。正面が開けており、山の麓を一望できた。月光を浴びた夜の山は恐ろしくも幻想的で、この世の物とは思えない。

 隣に腰かけた少女が言った。

「そういえばさ。ねこさま、どうしてわたしにここまで尽くしてくれるの?」

 束ねた長髪から湯が滴っている。体が火照り、頬が桜色に染まっていた。

「大切な人のわがままを聞く、命は守る。両立させるのが、自分に課した誓いだからだ」

「この仕事を選んだのも?」

「君が旅を願ったからだ。それに、君を家から連れ出し、独り占めするための方便も手に入る。私は、家でおとなしく飼い主の帰りを待てるほど、お利口じゃないからな。……おいおい、ここは笑ってくれよ、冗談なんだから」

 少女は露骨に顔を逸らすと、黒猫紳士に背を向けたまま言った。

「毎回思うんだけど、服を脱いだだけで、どうしてそんなに残念なことになるの?」

「しょうがないさ。紳士である前に猫なのだもの」

 黒猫紳士は、少女の首元を軽く掻くと、山の風景に目を移した。

 ふと、違和感。眼前には、荒れた山道と古びた電柱しか見えていないのに。

「どうしたの? ねこさま」

「歩き疲れて、気分が変になったようだ」

 

 もちろん、部屋も異様に広く、設備が充実していた。二人で泊まっているはずなのに、十五畳以上はある。

「すいませーん、夕食お願いします」

 少女は、マイクから聞こえてくる声と、何回かやり取りした。ふう、とため息をつくと、卓上のボタンから、白く細い指を離す。耳にかかった髪を払いながら、こちらを向いた。

「便利ね、これ」

 黒猫紳士は、少女の笑みにうなずいた。

「前泊まった所との待遇の差で、風を引きそうだ」

「ふふ、そうね」

 しばらくすると呼び鈴が鳴った。扉を開けると、厳格そうな男が立っていた。藍色の和服が、ただでさえ大きな体躯を余計大きく見せている。

「こちら、夕食の牛タン御前になります。お熱いのでお気を付けください」

「牛タンというのは?」

 黒猫紳士は御前を受け取りながら質問した。

「牛のベロを炭火で焼いたものです。歯ごたえがあっておいしいですよ! 十年以上料理長を務めた私が言うのだから、間違いありません! 胸を張ってお勧めできる、うちの一番人気です!」

 男は見た目に反し饒舌だった。その後も、延々と牛タンがいかに素晴らしい料理なのかを、ストーリー仕立てで語った。あまりの熱意に、料理長が語り終えると同時に、思わず拍手してしまった。

 驚くことに、料理長の言葉に偽りはなかった。食欲そそる塩と肉の濃厚な香り。楕円形で、豪快に切れ込みが入ったぶ厚い肉。箸で持ち上げると、照明の光で表面の油がきらめいた。

 噛んだ。瞬間、牛タンの肉汁と塩がまじりあったうまさの塊が、味蕾を刺激。間を置かず、肉と脂のハーモニーが口の中を絶頂させた。脳内に食の快感がほとばしった。

「なんてうまさだ!」

 横に座る少女は、先ほどまでのおしとやかさが嘘のように豪快に飯を食らっている。一心不乱に飯と、肉と、おしんこと、スープと、白菜と、とろろを口に運ぶ。

 下膳しに来た調理長へ、いかに料理が旨かったかを十分以上も語り続けた。

「うう……私、今までずっと料理を作ってきて本当によかった。あなたたちのおかげで、全てが報われました。ありがとう! たとえ死んでもこの恩は忘れません!」

 泣きながら、調理長は部屋を出て行った。その背中は、今まで見たどんな料理人よりも誇らしげだった。

「しかし、この山奥でどうやって食材を手に入れたのだろう?」

 

 外はすっかり真っ暗になっていた。

 黒猫紳士は布団に座る。スーツと共に紳士という役割を畳むと、体を横たえ丸まる。

 少女はブラシを取り出し、黒猫紳士の背をブラッシングし始めた。時折、頭を撫で、喉元をくすぐってくれる。年単位で仕込んだ甲斐あって、彼女の技術は極上の一言。

「明日の朝、お別れかぁ。もっと長居したかったなぁ」

「ここの職員に嘘偽りはなかった。最高の旅館だった。これ以上のサービスは見たことがない」

 喉をゴロゴロ鳴らしながら、自分の体を舐める。唾液による消臭、除菌。そしてマッサージによるリラックス効果、および血行増進。

 嫌なこと面倒なことを全部放り投げ、全力で飼い主に甘えられる。大好きな人を独り占めできる、至福の時間。それがグルーミングである。

「おーよしよし。ねこさまかわいいねぇ~。ほおら、くりくりしちゃうよ~。うふふ」

「にゃ~ゴロゴロ」

 快感に耐えられず電灯を見上げた時、またも妙な感覚にとらわれた。

「あれ? あの電灯、断線しているのに光っている」

 その言葉のおかげで、点と線が繋がった。

 露天風呂での謎が解けた。道中の送電線は断線していた。この施設に、唯一電気を送っているはずの送電線なのに。

「魔力を使った道具か何かかな?」

「いや、それはない。大気の魔力が不安定すぎて、まともに起動できないだろう。もしかしたらこの宿、見た目より高度な技術で作られているのかも」

 黒猫紳士はここまで話し、「ヴァア!」といらだたしげに鳴いた。

「そんなことより、ほら、手が止まっているぞ、飼い主様。頭を撫でろ! 首の周りを掻け! 背中をさすれ! しっぽの付け根を愛撫しろ! ほらほらほら!」

「さすが飼い猫! 図々しい!」

 

 翌朝、全職員に見送られた。館長が、弁当箱を差し出しながら言った。

「この宿の事、ぜひ旅行記に、書いていただきたい。そして、少しでも多くの人に、知ってもらいたい。ここに、従業員みんなが誇る、素晴らしい宿があったことを」

 館長は、宿の従業員、一人一人と目を合わせてから、こちらへ向き直った。

「――ご宿泊ありがとうございました。どうか振り返らず、前へ向かって歩き続けてください。あなたがたの旅を従業員一同、心より応援しています」

 黒猫紳士たちは、弁当をトランクに仕舞い深々と礼をした。

「おかげで、最高の思い出を書けそうだ。ありがとう。この宿で泊まったこと、私は一生忘れない」

「ずっと住んでいたいくらい! ありがとう、みなさん。またどこかで!」

 二人が百歩ほど歩いた頃、地面が大きく揺れた。直後、背後で大きな物音がした。

「そんな! 宿が!」

 一瞬だった。宿は、巨岩の群れに飲み込まれ、跡形もなく消えた。弾きとんだ木材はまるで雲のように透き通り、消えた。倒壊した建物も、飲み込まれた人々も、みんな、みんな、消えてしまった。あとに残ったのは、ただの巨大な岩山だけだった。

 少女が地面にしゃがみ込む。視線の先、地面に倒れた一枚の看板があった。

 最初に黒猫紳士が踏んだものと同様の看板。しかし、サビが幾分かとれており、字が読めるようになっていた。

 

 立ち入り禁止! アザヤマ大豪雨の時、この先にあった旅館は、土石流に飲まれてしまいました。従業員は全員、死亡もしくは行方不明。さらなる犠牲者を出さないためにも、この先への立ち入りを、禁じます。

 

「旅館幽霊……!?」

 黒猫紳士は、トランクの中から弁当を取り出し開いた。白いご飯の上に、黒い海苔で文字が書かれていた。

 

『良い旅を』

 

 黒猫紳士は地面に伏す少女へ、手を差し伸べた。そして、服に着いた埃を払うと、目をまっすぐ見つめてささやいた。

「彼らのためにも行かねば」

「ええ、振り返らず前を向いて、最高の旅にしましょう!」

 二人は弁当を半分ずつわけあい、旅館を後にした。

青のない街

「この国では、生物以外が持つ『青色』を禁止しているんです。あと注意点としては、火気厳禁であることですかね。マッチなどがありましたら、滞在中、預からせて頂きます。また、出血をした場合は、速やかに包帯で覆ってください。『青色』は、とにかく禁止されているので」

 そのように門番に言われて、踏み込んだ町が、一面真っ青だったときの衝撃。民家の壁は青。屋根も青。道路の砂利も青。柵も青。花壇の花も青。『町にいる間はこれを着てください』と貸し出された服も、もちろん青。

 黒猫紳士は一瞬、自分の目と常識を疑いそうになった。連れの少女の様子を見る。困惑した表情は、黒猫紳士の目には異常がないことを、物語っていた。

「ねこさま、これって?」

 少女は、絹のようにつやのある黒髪と、青のワンピースを揺らしながら、街を見回した。

 門から伸びる大通りを歩き、繁華街へと向かう。露店や食事所のメインカラーも、もちろん青だった。

 黒猫紳士は、通行人に声をかけた。真っ青なチョッキの、けっこうな美女だった。

「『青色』とは、いったいどんな色なんですか?」

「一般人がわかるわけないじゃん。禁止されてから、もう百年以上経ってるんだから」

 めんどくさそうに、美女は去っていった。その後も、何人か話しかけたが、有力な情報は得られない。

聞き歩いているうちに、商店街へ突入。粘り強く聞き込みをしていると、長い金髪をなびかせた、釣り目の女性が寄ってきた。先程よりもさらに鮮やかな、青のドレスに身を包んでいる。黒猫紳士は軽く挨拶を交わすと、本題にはいった。

「実は、大変言いにくいのですが、この国の色、私の故郷では『青』と呼ばれているんです」

「なんですって?」

 女性は、露骨に不快感をあらわにする。しかし、こちらの身なりを見るなり、すぐ落ち着きを取り戻した。

「あーなんだ、旅人の方ね。滅多に来ないから、そうとわからなかったの」

「不愉快な思いをさせてしまい、申し訳ありません」

「いいのよ、気にしなくて」

 頭を下げる黒猫紳士に対し、女性は優しい笑みを浮かべた。

「もし、この町の『青色』が見たかったら、そこの角を右に曲がって。それから、まっすぐ進んだところにある、焼却炉を見るといいわ。焼却係りの人以外は、まずいないけどね。私も中に入ったことはないし、『青色』がどんな色かは知らない。でも、あんな所へ行くぐらいなら、レストランにでも立ち寄った方が、よっぽど有意義よ。どう? ご一緒しない?」

「お言葉は嬉しいのですが……」

 女性は、ズボンにしがみつく少女を見て、肩をすくめた。少しかがみ、少女と目線を合わせると、微笑みを浮かべながら言った。

「かわいいお嬢ちゃん。その見えない手綱、絶対に離しちゃダメよ」

「うん、わかった!」

 あっけにとられる黒猫紳士を置いて、女性は去っていった。

「私って、そんなに浮気性に見えるのか?」

「釣り目で、長い髪の女の人に対しては」

 あっさり好みを言い当てられ、黒猫紳士は苦笑いするしかなかった。

 

「あ! ねこさま、あれが焼却炉じゃない」

煙突のついた、青色の四角い施設だった。周囲を木々で囲まれており、町から隔離されている。その上、窓の数が異様に少ない。施設の中にあるものを隠したいという思いが、痛いほど伝わってくる。

 側面に、出入り口らしきものを発見。

「さて、鬼が出るか蛇が出るか」

「何が出るにしても、行きましょう。ねこさま!」

 中に入ると、長机と椅子だけ置かれた、簡素な受付があった。床も、壁も、全て青で塗られており、何となくドライな気分になる。

 受付の奥に、壮年の男が座っていた。眠そうに本を読みながら、あくびしている。男はこちらに気づくと、慌てて立ち上がった。

黒猫紳士は手短に要件を伝えた。男は首をかしげながら答えた。

「『青色』の見学、とは? いくらトラベルライターとはいえ、あんな不快なものを見て、何になるんですか? わざわざ、国中の建物を塗り潰してまで、避けている色ですよ?」

 その質問には少女が答えた。

「『青色』がどんなに不快かを知れば、旅人であるわたしたちにも、この町の人の気持ちがわかると思うの。だからよ」

「なんと立派な。この子はきっと、大物に育ちますよ」

 壮年の男は、大袈裟に笑った。黒猫紳士は、先程のやりとりを思い出して、吹き出しそうになった。

「ついてきてください。受付は、ほっといていいんです。どうせ誰も来ないし、貴重品ロッカーは『青色』の部屋の奥にあります。泥棒は、入りたくても、入れません」

 

 奥にある扉を開けると、殺風景な通路が続いていた。まず右へ曲がり、奥へ進むと右に曲がり……延々と右に曲がりながら、施設内を進んでいく。あとで聞いた話によれば、渦状に道が配置されており、厄よけの魔方陣と同じような意味があるとのことだった。理由はただひとつ、『青色』を封じ込めるためだ。

 だんだんと、中心へ近づいていることを感じる。少女は、この先に何があるのか、興味津々といった様子だ。町中が忌避するものを見に行くとは思えないほど、目がきらきらしている。元々精神的にタフだったのに、旅を通して、さらにタフネスになってしまったらしい。

 そんなことを考えているうちに、最後の扉へたどり着いた。

「さて、覚悟はよろしいですか。引き返すなら、今のうちです。後悔しても、しりません。『ここまで来たら、退くわけにはいかない』という意地でここに立っているのなら、どうかお引き取り願います」

「ええ、どんとこい、よ」

「最悪な光景であればあるほど、最高のネタになる。トラベルライターの、醍醐味だろう」

 男はゆっくりとうなずいた。そして、もう一度確認をとったあと、扉に鍵を差し込み、回した。

「本当に後悔しませんね」

 鉄の擦れる重苦しい音と共に、扉が開く。

 奥にはあったのは……

「あー」

 少女のほっとしたような、ガッカリとしたような、気の抜けた声」

「やはり、な」

 なぜ、この町が青で塗りつぶされているのか。

「見てください! 一面『真っ青』です! これを見て正気でいられますか!?」

 不快感を全開にする、受け付けの男。その視線の先には一面火の赤、赤、赤。上から焼却炉へ投下されている物体も、レンガや赤の衣服といった、赤色の無機物だった。二人は、なんとも言えない表情で、受付まで戻った。

「わかったでしょう。この町の人が、なぜ『青色』を嫌うのか。あの色は、脳に作用して本能的な不快感だとか、恐怖とかを、呼び起こしてしまうんです。その上、目に焼き付いて離れない。ああ気持ち悪い」

「こんな職場で働くなんて、大変ね。ここの職員さんもそう。でもこうして頑張っている人がいるから、町の人は『青色』から離れて平和に暮らせるのね」

「まあ、その分高い給料もらってますからな。ハハハハ」

 

 その後、幾ばくか話した後、焼却炉から外に出た。青に包まれた町が、焼却炉の赤と混じりあい、灰色に見えた。

「ねこさま、この国では赤色のことを『青色』って言ってるけど、どちらが正しいのかな?」

「さあな。名前など、時と場合によって、いくらでも変わる。例えば、君の故郷で『お湯』と呼ばれているものが、私の故郷では『熱い水』と呼ぶ文化あったりする。文化だけではなく、役割によっても変わることがある。同じ水でも、手を洗う用の水だと言ったら『手を洗う用の水』になるし、飲み水だと言えば『飲料水』になる」

 少女は少し考え込んだ後、続けて質問してきた。

「うーん、それじゃあ、わたしたちが見ている色とこの国の人が見ている色って、同じ色なんだよね?」

「わからない。君が感じる痛みが、私の感じる痛みは、同じである、と証明する手段がないように。大切なのは、異なる文化を理解した上で、受け入れることだ。互いに譲歩して、双方がウィンウィンになるつきあい方を考えることができたら、素敵だと思わないか? もっともそれができれば苦労しないが」

 町に戻って、あらためて建物を見回す。黒猫紳士の目には、やはり、青にしか写らないのであった。

地獄の季節

 漆黒の砂、一面のヒガンバナ、黒に染まった空。

 ここの動物は、赤と黒の粘土を、軽く混ぜ合わせたような色をしていた。大半が多腕、多脚、多眼。

 霧のような霞に、無数の口と目が全身に浮かび、触手が十本ほど生えた異形から身を隠しつつ、黒猫紳士は呟いた。

「これ、旅行記にどう書けばいいんだ?」

 ここに来た経緯も、思い出せない。宿の二階に泊まって、眠って、それから……どうなった?

「仕方ない、とりあえず今は脱出に集中しよう」

 岩陰に隠れ、頭が十三、足が三本ある熊や、ヒトの唇に六つの羽と触手がついた化け物をやり過ごす。

 時折、白骨や、土を盛っただけの墓にも出くわした。

「迷い込んだのは、私だけではないらしいな」

 奥に進むにつれ、異形の出現頻度が増していく。形も、既存の生き物に、形容できるレベルを超えてきた。顔のパーツが全身に配置されていたり、頭から片手片足が生えていたり。さらには、露骨に進路を邪魔する輩も出現。

 さすがの黒猫紳士も、気分が悪くなってきた。

「彼らは一体、なんなんだ」

 さらに進むと、壁があった。見上げたが、上端が見えない。横は、地平線まで続いているようだ。目、口、鼻がまんべんなく浮き出て、脈打っているそれを、壁と言っていいのかは疑問だが。

 杖を打ち付けたがダメだった。ぶよぶよとした脂肪が、衝撃を吸収してしまう。

 登ろうともした。だが、壁に手を付けた途端激しく震えだし、振り落とされてしまった。しりもちをついた拍子に、ヒガンバナがバキバキと折れる音が響く。

「仕方ない、戻るか」

 黒猫紳士は、来た道を振り返り、ため息をつく。そのとき、背後から肩をつんつんされた。

「誰だ!」

 振り向くと、ウサギ頭の紳士がいた。目は黒く、クリッとしている。服装や装備は、なんとも嫌みなことに、黒猫紳士のものよりも上等だった。

 ウサギ紳士は、こちらへ向けて何度かうなずいた。

「なんだ?」

 彼は壁に歩み寄ると、軽く手を触れた。すると、壁がどろどろと溶解しはじめた。

 肉が焼けるような音に混じって、悲鳴が聞こえた気がする。が、気のせいということにしておいた。

「案内してくれるのか?」

 ウサギ紳士は、懐中時計を取り出して時間を確認。その後、ニコリと笑い歩き出した。黒猫紳士は、とりあえず、後に続くことにした。

ウサギ紳士に敵う者はいなかった。不気味な化け物も、彼の手にかかればサンドバッグ同然。

 やがて、妙なものが見えた。何もない空間が、裂けているのである。裂け目からは青空と雲が見えた。

 ウサギ紳士は、ぴょんぴょんと嬉しそうに跳ねながら、裂け目を指さした。どうやら、ここが出口らしかった。

 目前まで歩いた瞬間、凍りつくような殺気。背後を向き、杖を構える。杖にあたったのは、ウサギ紳士の手刀。

「なるほどな」

 ウサギ紳士は、不意打ちが失敗したとわかると、腰のベルトから杖を引き抜いた。

 両者、黒い砂をまき散らしながら、杖で撃ちあう。ウサギ紳士は、黒猫紳士と、ほぼ同等の能力を持つ強敵だった。

 黒猫紳士は、久しく好敵手に恵まれなかった。自身が強すぎるゆえに、他者と敵対しても、そもそも戦闘に発展することが少ない。たとえ、戦闘が成立するような相手でも、黒猫紳士の遥か上の存在。

 好敵手との闘い。久しく忘れていた高揚感。無我夢中で杖を振る。地獄のような場所で、夢のようなひと時。

 と、心なしか辺り暗くなった。ウサギ紳士の奥にある、裂け目の空が曇り始めている。

「まさか」

 冷静さを取り戻し、相手を観察。時折、戦闘中にも関わらず、懐中時計へ目を向けていることに気付いた。

「時間稼ぎ!」

 黒猫紳士は『もっと戦い続けたい』という欲を飲み込んだ。

 杖に殺意の魔力を込める。杖が黒紫に発光。超高濃度の魔力をまとい、刃と化した杖が、敵の胴を切断した。

 上下にわかれ、無様に地面を転がるウサギ紳士。切り口から、どす黒いタールのような液体が、流れ出てきた。黒い目に赤い瞳が浮び、血の涙が、頬を伝う。

 黒猫紳士の完全勝利に見えた。しかし、ウサギ紳士は消える間際、けたたましい笑い声あげた。嘲笑だった。外見に似合わぬ、野太い声だった。

「しまった!」

 すでに裂け目は消えていた。ウサギ紳士の懐中時計を拾う。黒猫紳士は、思わずため息をついてしまった。

 文字盤はシール。本体も鎖も、安っぽいプラスチック。何の意味もない、おもちゃの時計。

 奴は、黒猫紳士を惑わすためだけに、時計を眺めていたのだ。

「まさか、あの裂け目も、奴が作り出した、フェイク!」

 最悪だった。振り出しに戻ってしまった。いや、奥地に来てしまった分、事態は悪化している。

 負の思考に陥りそうになった黒猫紳士は、いったん深呼吸した。

「なぜ、奴はこの方向に私を案内した?」

 一番考えられるのは、出口から遠ざけるため。

「なぜ、奴は異形たちを殺した?」

 もしかしたら、黒猫紳士が異形を見ることによって、奴に不都合が生じるのかもしれない。ではどんな、不都合が生じるのか?

「もし、異形たちが、私の味方だったとしたら……」

 そこで、黒猫紳士はひらめく。

「そうか! 私が、出口から遠ざかっているから、警告しに来ていたのかもしれない。自らの不気味さを武器に!」

 彼らは道をふさぐことはあっても、襲ってはこなかった。

「ならば、奥に行けば行くほど、数が増え、恐ろしい姿になるのも道理。異形たちがより少なく、実際の生き物に近くなる場所を目指せば、出口にたどり着くのでは?」

 どうやら、当たりだったようだ。

 道を引き返すとき、異形たちはほとんど現れなかった。時折、視界の端をちらつく異形を参考に、歩く方向を修正。驚くほどすんなりと、スタート地点に戻ることができた。

 そして、スタート地点から約一分歩いたところ、裂け目があった。裂け目から見える景色に、見覚えがある。昨日宿泊した、宿の天井だった。

「そうか、これは、夢! 何者かが、私の夢に干渉したのか!」

 高鳴る気持ちを抑え、ゆっくりと裂け目に近づく。そして──腰の杖を抜き、わきの下から背後へ向け、突いた。

 肩越しに、後ろを向く。黒い目、赤い瞳、赤い涙。口は目じりの下まで裂け、その内側には、百を超える針のような歯が見えていた。

「そんなことだろうと、思ったよ」

 よみがえったウサギ紳士を、何度も切り付ける。これまでのうっ憤を、晴らすかのように。

 全身ずたずたになったウサギ紳士へ、ダメ押しの回し蹴りを放った。ウサギ紳士は、肉片と化し、辺りに散らばった。

 黒猫紳士はその隙に、裂け目へ突入。念のため、最後にもう一度、振り向いた。そして、後悔した。

 完全に滅したはずの肉片が、文字を描いていた。

 

た の し い な

 

「ヴァアアアア!!! ア゛ウン!」

「ねこさま! 大丈夫!?」

 文字通り、跳び起きた。天井に激突。ベッドでワンバウンド。床でさらに顔を撃った。

「ぎにゃあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」

「ねこさまとあろうものが、威嚇下手な猫みたいな声出したあげく、着地に失敗して、鼻を抑えて悶絶するなんて……」

 涙で潤んだ視界に、少女の顔が映りこむ。漆のように艶のある黒髪、白いシャツ、黒いズボン、顔は童顔に似合わぬ、釣り目。ずいぶん久しぶりに顔を見たような気がして、胸が締め付けられるような感じがした。

 黒猫紳士は、少女が持ってきた水を飲み、ようやく落ち着きを取り戻した。一息ついて、辺りを見まわす。

 木製家具で統一された、質素な寝室だった。窓から光が差し込み、中は明るい。

「私は、何日寝ていた?」

「丸三日。宿屋さんからは『一週間はうなされ続ける』、って言われていたから、予定よりもかなり早い目覚めね」

「あとは、報告すれば終わりか。長かった。……心配かけたな」

 黒猫紳士の声掛けと同時に、少女の頬に、スーツと涙が流れ落ちた。頭に手を添え、ゆっくりと撫でてやる。

「目が覚めてくれて、本当によかった。ようやくこれで、あなたに言えるわ」

「何を?」

「今すぐ! 風呂! 入って! 獣クサい!」

 黒猫紳士は、反射的に自分の体臭をかいだ。

「タオルで毎日拭いてくれたのか。ありがとう。想像よりは匂っていない。……想像……より……は……。ダメだ、生理的に受け付けない。三日間も毛づくろいしてないなんて、耐えられん。行こう!」

 枕元の杖を手に取り、ベッドを降りた時。部屋の奥に、ウサギの絵が飾られていることに気付いた。目は黒、瞳は赤。黒猫紳士は、思うよりも先に杖を投げていた。

「ウサギ野郎!」

 杖が当たった衝撃で、ウサギの絵が地面に落下。同時に、キャンバスが、無数の肉片へと変化。床に散らばった肉片たちは、一か所に集まり、何度か伸び縮みすると、人型に収まった。

 黒猫紳士はその間も、何度も切りつけていた。しかし、斬撃の全ては、肉が伸縮したり浮いたりしたため、見事にかわされてしまった。夢で戦った際、学習されてしまったようだ。

 顔に相当する部分に、線状痕が刻まれ、ぱっくりと開いた。

 

 ま た あ そ ぼ

 

 肉片は、窓を強引に開けると、街へと消えた。

「ちっ、畜生がっ! 私の清潔な体を返せ!」

 少女が、呆然としながら、窓の外を眺めている。

「何あれ怖ッ! あいつがこの部屋の呪いの原因?」

「ああ、おそらくな。驚かせやがって。ここで仕留めたかったが、仕方ない」

 黒猫紳士は、吐き捨てるように言った。そして、カバンからジョッターメモを取り出し、乱雑にメモ。

「注意喚起ね。旅行記を書く理由が、また増えた」

「ああ。この恨み、書き連ねずにはいられない」

「……あれ? 目的変わってない?」

恋愛相談

 黒猫紳士は驚いた。目の前に座る少女が、今まさに読んでいる本のジャンルを見て。

 紅茶の最後の一口を飲み終え、ティーカップを小皿に置く。カフェの窓から見える歩道には、人だかりができている。図書館へ行く前より、さらに大きくなっていた。

 気になりつつも、少女の方を向き、口を開いた。

「さっき行った図書館は、この国はおろか、近隣の国の中で最も大きい。蔵書数は断トツの百万冊。私たちのように、国外からも本好きが集まるほどだ。そんな図書館で選んだ本が、恋愛本とはな」

「意外?」

「君は、そういうのには興味がないタイプだと、思い込んでいた」

 漆黒の髪、同じく黒いジャケット、そしてスカートとニーソ。おしゃれとは無縁の少女は、本を閉じ、人だかりを指さした。

「さっきは、時間がなくて飛ばしたけど、やっぱり気になるし」

「では、次の予定は決まりだな」

 

 人だかりをかき分け、ようやく店頭にたどり着いた。ガラスの奥で、数人の客が、椅子に座って並んでいた。奥はカーテンで仕切られており、見ることができない。

「ねこさま、あれ」

 連れの少女が指さした先に、看板が立っていた。『出張恋愛相談所』と書かれている。

 相談師の写真も貼られていた。黒い学生服を身にまとった女性。胸まで届く、光沢を帯びた黒髪。挑発的な釣り目と、妖艶な笑み。手には黒いボールペン。プロフィールを読むと、どうやら短期留学生らしかった。

 黒猫紳士は思わず苦笑いする。

「嘘つけ、どう見てもモデルだろう」

「にしても、どうしてあんなに人気なんだろう? 美人だから?」

 少女はそう言いながら、豊かな黒髪に手を通した。相談師と同じ黒い長髪と、釣り目。意識してしまうのは当然だろう。

「実際に、体感するのが一番早いだろうな。旅行記のネタにもなるかもしれん」

「で、最後尾どこ?」

 黒猫紳士は、両手のひらを天に向け肩をすくめた。

「右だ」

 遥か彼方に、プラカードを持った係員がいる。

 少女がポツリと呟いた。

「待ってる間、話題、ある?」

 行列に並ぶ。ときおり横入りされたり、抜かされたりした。黒猫紳士はその間も、ずっとしゃべり続けた。

「部屋にいる猫が、いっせいに見上げることがあるだろう」

「あるある。なんだか、幽霊を見ているみたいで怖い」

「あれは、人間には聞こえない、微弱な音を拾っているんだ。両耳を細かく動かせるおかげ、音の発生位置も、正確に把握できる。猫は、音をまるで見ているかのように、追えるわけだ。だから幽霊の正体は……」

「音だった、ってわけね」

このほかにも、旅行記の次回作の話、以前訪れた街の話などなど、とにかく話し続けた。

 苦労の末、ようやく相談所が見える位置まで、たどり着いた。

「本日の恋愛相談はここまでです!」

 眼前で、断ち切られた。

 こんなことある!? とでも言いたげな表情で、少女がこちらを見る。黒猫紳士は、首を横に振ることしかできなかった。

「お昼時から夕方まで、ずっと並んだのに!」

「明日また来るか」

 そう言った矢先だった。係員が、申し訳なさそうに言った。

「今日で最後なんです」

「そんなー。やーだぁー!」

「おい、素が出てるぞ」

 あきらめて帰ろうとした、そのときだった。背後から、妙に艶やかで張りのある女性の声。

「待ってください。ちょっといいですか?」

 あまりにも聴き触りが良すぎて、耳がゾクゾクする。

振り向くと、地味な茶色のコートを着た女性がいた。帽子とマスク、そして眼鏡で顔を隠している。

「私、あなたが好みなの」

 それは光栄だ、と言おうとした黒猫紳士の脇を、女性はすり抜けた。そして、少女の前でかがんで膝をつき、手をとった。

「あなたの!」

「はい!? わたし? ねこさまじゃなくて?」

「ええ。もしよければ、お話してもいい? あそこで」

 女性が指さした先は、恋愛相談所だった。

「そういうことか」

「ええ、そういうことよ」

「え? どういうこと?」

 女性は、眼鏡を外し改めてあいさつした。

「あなたたちが会いたがっていた恋愛相談師よ。よろしくね」

 

 少女はテーブル越しに、女学生と向き合っていた。テーブルの上には、卓上メモと数本のボールペン。そして黒い筆箱が置かれている。

部屋の奥には本棚、衣装棚、化粧台などが綺麗に並んでいた。よく見ると、仮眠用の寝台まで用意されていた。ほのかに甘い香りが、鼻孔をくすぐる。

 額から頬へ、汗が滴った。いつも頼れる黒猫紳士は、別室で待機中。

「あっあの、質問は以上ですか?」

「ええ」

 少女の前で、ボールペンがひとりでに動き始めた。圧倒的早さで、卓上メモが埋まっていく。一枚埋まる度、もう一本のボールペンが、器用にページをめくる。

女学生は、こちらに視線に気づくと、怪しい笑みを浮かべた。

「私、ボールペンを自在に操れるの。これ、いろいろと便利なのよ。例えば……あなた、椅子からゆっくり立ち上がって」

「立てばいいの?」

「そう、ゆっくりと」

 少女は、音を立てないように、ゆっくりと立ち上がった。見下ろしているのに見下ろされているような、不思議な感覚に陥る。女学生の美の前に、体が恐怖しているかのようだった。

「いい子ね。素直な子は、好きよ」

 卓上の筆箱が勝手に開き、二本のボールペンが飛び出した。ボールペンは、少女の左右の肩や腰、太ももに触れる。

 驚いて、思わず声が出てしまった。

「うっ!」

「敏感なのね。ますます気に入ったわ」

 そう言うと、女学生は舌をなめずった。扇情的なピンク色が、ちらりとのぞく。少女は、胸の高鳴りを感じた。何に期待しているのかは、自分でもよくわからない。

「体形はいいわ。旅をしているだけあって、余計な脂肪がほとんどついていない。線もしなやかで、申し分ない。童顔で愛嬌があるのも素敵。武術の素養があるところも好きよ」

「え、なんでわかったの?」

「筋肉の付き方と手のタコ見れば、大体わかるわ」

 こともなげに女学生は言ってのけた。

少女は両手で胸を押さえた。心の奥底を見透かされているような気がして、少し怖くなったからだった。

「すごい」

「まだよ。まだまだ。気持ちいいのは、ここからなんだから」

 女学生は、卓上メモをざっと眺めてから、言い放った。

「なんであなたの恋愛が、うまくいかないのか。その原因は、たった一つ。ずばり、自信がないからよ」

 図星だった。

「特に、容姿や魅力に関しては、からっきし」

 少女に異論はなかった。

寝食を共にしている黒猫紳士ならまだわかる。しかし、今日初めて会った彼女が、ここまで自分のことを理解してくれるとは。この人の助言なら、信じてもいいかもしれない。そう、思い始めた。

「自信を持てとは言わない。自身があるフリをなさい」

「どうして、フリをすれば自信がつくの?」

 素直な質問に、女学生はさらりと返答した。

「根拠のない自信を持って百回ナンパするとしましょう。一度でも成功すれば、一度分の根拠のある自信が手に入る。真の自信は、根拠のない自信から生まれるの。ナンパでなくても、コストゼロに近い挑戦はたくさんあるわ。手あたり次第、チャレンジすればいいの。失敗しても傷つくのは、自分のプライドだけだから」

「じゃあもし必死に頑張っても、失敗したら?」

「失敗が怖いのなら、こう考えなさい。失敗は学習。失敗する前と比べて、自分は確実に成長している、ってね。まぁ。私の場合は、『失敗とは結果を出すための一過程にすぎない』って考えてるから、そもそも傷つかないけど」

 そんな鋼みたいな心を持っていたら、ここには来ないんだけど。

口を開く前に、女学生は断言した。

「何事も、自分で選んで決めていく。選択を積み上げ、自分の将来を自分で作る。これが、本当の自信をつけるための原則よ。最初は小さなことからで構わないから、やってみて。あなたはそれができるし、そうするべきよ」

 少女は、言葉に詰まり、しどろもどろするしかなかった。

「でっでも、わたしはあなたみたいに、とびぬけてかわいくもないし、魅力的でもないし、聡明でもないし」

「へぇ、じゃあ、私の目を疑うっていうの? とびぬけてかわいくて魅力的で聡明な恋愛相談師である私の目を? そう、残念ねぇ~」

「ごっ誤解! 誤解だから! ごめんなさい」

 少女は、両手をぶんぶん振ってアピールした。女学生は、クスリと笑顔をこぼす。どうやら、冗談だったらしい。

「いいわ。じゃあ、私が変身させてあげる」

 衣装棚が勝手に開く。衣服が、速やかに女学生の前へ運ばれた。

「これに着替えて頂戴」

「えっ……ここで? 脱ぐの?」

「女の子同士なんだから、いいでしょ? もし、気になるようなら、後ろ向いてあげようか?」

「そこまで、気を使わなくていいです!」

 少女は、若干恥ずかしがりながら、服を脱いだ。そして、女学生から渡された、衣装に着替える。ふわふわのフリルがついた黒いドレスと、ヘッドドレス。どうして、こんなものが平然と用意されているのか、理解できない。

 着てみると、想像以上にしっくりきてしまった。鏡の中の自分はまるで、童話の主人公。

「はわわ」

 自分の姿に見とれていると、耳元に甘いささやきが聞えた。

「ほら、かわいい。まるでお人形さんみたい」

すぐ横に女学生の顔。彼女のしなやかな髪が、頬に触れた。少女は、驚きのあまり硬直。

 女学生が、こちらの額に人差し指を乗せてきた。指は鼻頭を通り、唇に軽く触れ、顎の下を掻く。皮膚から伝わる淡い感触に、鳥肌が立った。

「言うことを聞いてくれて、ありがとう。お礼に、コレあげるわ」

 女学生が指を鳴らすと、ボールペンにぶら下がった黒いカバンが飛んできた。女学生は中から、黄色くジューシーな皮で覆われた、お菓子を取り出した。

「シュークリーム?」

「さあ、キスの練習、しましょ?」

 女学生はちぎったシュークリームを摘まむ。そして指ごと、口へねじ込んできた。

「んぐぅ!?」

「ほら指の周りを丹念になめまわして! そうよ。その舌使いを覚えて。使えるから!」

 突如豹変し、愉悦の笑みを浮かべる女学生。少女は驚愕と、恐怖と、恍惚に脳を支配され、言われるがまま、必死に指を舐めだした。

「クチュ……ピチュ……レロッ……んぷ!」

「そうよ、そう! そう、そう、そう! もっと激しく! 激しく! 激しく!」

「ジュル……んぐ……あぅ……ん」

 残りのシュークリームも突っ込まれた。少女は、砂糖とバターの塊を、口の中に収めることができずにむせこんだ。

「けほっけほっ……うぇぇ」

 頭がふわふわになって、視界がぼやける。少女は下を向き、口で呼吸した。よだれが垂れ、涙がにじんでいる気がしたが、それどころではない。

「ぜぇ……はぁ……ふぅ……」

「あら、こぼれちゃったじゃない。汚れがシミにならないように、すぐ洗濯しなきゃ」

 手が伸びてきた。白く透き通った、陶器のような色。白蛇だ、と少女は思った。蛇は獲物を絡め、口を大きく広げた。

「ま、待っ!」

 見た目に反し、万力のような力だった。少女はろくな抵抗もできず、下着姿にされてしまった。胸と下腹部を隠し、床にかがむ。

「うぅ……」

「あらら、顔を真っ赤にして。かわいいわぁ~。食べちゃいたいくらい。フッ……フッ……フッ! 服を汚した罰、何にしようかな」

「あなたが、無理やり!」

 振り向きざまに叫んだつもりだったが、ほとんど声が出なかった。女学生は、紅の瞳をぎらつかせて、迫ってくる。

「じゃあ、外に向かって叫んでみたら? 助けてくださいって」

「助け……ぇ……」

「お香が聞いたわね。今のあなたは、まな板の上の鯛。助けも呼べない、抵抗もできない、可哀想なお人形さん」

 女学生は、目前まで迫ると、後頭と腰のあたりに手を回してきた。

「さあ、目を閉じて。力を抜いて、身をゆだねて」

 そのまま、お姫様抱っこされた。手の触れている部分が火照る。体がゾクゾクし、未知の快感に体が震える。思考が霧散し、何も考えられなくなる。

「いやぁ……」

「あなたの好奇心と、渇望を感じるわ。さあ、思考も、悩みも、何もかも置き去りにして、一緒に気持ちよくなりましょう?」

 ふわりとした場所に降ろされた。薄目を開けると、女学生が乗りかかっていた。もはや、抵抗することも、逃げることもかなわない。

「あうぅ」

 全身が火照り、熱く燃える。肌が、寒い。心が寂しい。少女は、絶余の美女に向けて、手を伸ばし……。

 

 黒猫紳士は、扉を開け放った。

「お前は盛りのついた猫か!」

「あら、なんて絶妙なタイミング」

「たとえ防音だろうが、猫の聴覚を用いれば、大きな物音くらいならわかる。そして、音の発生位置が寝台近くとなれば、さすがに疑わざるを得ない。もっとも、扉から漏れ出したお香の匂いで、バレバレだがな」

「あら、かっこいい。でも、黒馬の王子様。世の中は童話のように、うまくはいかないの。ごちそうは、多くのけだものが、狙っているものですよ。興味なさげなフリをして、目をぎらつけている、けだものが、ね!」

 黒猫紳士は、女学生の手をつかもうとした。しかし女学生は、驚くべき速さで跳躍。そのまま宙を舞い、黒猫紳士の頭上を越え、距離をとる。

 そのまま、地面から少し浮いた状態で静止した。

「ボールペンを操る能力だけじゃないのか?」

「いいえ。ボールペンを操っているだけですよ」

 だとしたら、宙に浮いているのは、靴底にでも仕込んだボールペンによるものか。なるほど、身体の動きに合わせて、服に仕込んだボールペンを動かすことで、身体能力を大幅に向上させる。理にかなった戦い方だ。

 黒猫紳士は改めて、女学生に近づこうとする。しかし、テーブルの筆箱から放たれたボールペンが高速縦回転し、行く手を阻む。

「ずいぶん、芸達者だな」

「ええ。私、欲しいものを手に入れるための自分磨きには、余念がないの!」

 部屋が狭く、思うように杖を振れない。よく見ると、家具が黒猫紳士を邪魔するかのように、少しずつ移動している。キャスター付きの家具に、ボールペンを取り付けているのだろう。きっと家具だけではなくあらゆる物に、取り付けているに違いない。

「その分だと、同時に動かせる数には限界があるようだな」

「十五本を二十分間。それが私の限界。さあ、残り十八分、がんばって」

 バッグの中から、ペンを括り付けたナイフが出現。まっすぐこちらへ飛んでくる。同時に、踵をボールペンがなぎ払ってきた。

「くっ!」

 態勢を崩した瞬間、女学生が急接近。腹に強烈な一撃を受け、壁まで吹っ飛ぶ。

「武器……ボールペンを頑丈にして、柄をとがらせた……武器!」

 突きや蹴りの速度・威力共に人間離れしている。各関節を、ボールペンで強化しているに違いない。

「ほら、立ちなさいな。まだ、私の講義は終わってない」

 小型のボールペンが飛んできた。キャッチした途端、ボールペンが暴れ、抜け出そうとする。黒猫紳士はそのまま握りつぶした。

 一息ついた時、十本もの小型のボールペンが同時に飛来した。それぞれが独立して手を避けて動く上、フェイントを駆使し、不規則に動く。

 黒猫紳士は口を固くつむぐと、猫の動体視力を用い、ボールペンを次々つかんでは潰した。

「安心して、水性インクだから洗えば落ちるわ」

 そんなことを心配しているのではない、と突っ込みたかったが、耐えた。口に入ろうとしたペンをキャッチ。最悪の事態は免れたかのように、思えた。

 そのとき、足元と手首に違和感。

「袖口から!?」

 手から侵入した二本は止め、砕いた。しかし、足から侵入した一本は、逃してしまった。手で掴もうにも、ズボンの中を縦横無尽に動き回るのでは、どうにもならない。

「ぎにゃぁああ!?」

 脂汗が噴き出た。全身を貫くような激痛に、股間を抑える。

 最悪だった。相手は、黒猫紳士の間合いを完全に把握しており、近づいてこない。杖の機能を解放した所で、敵を打ち倒す前に、股間が死ぬ。

 ダウンした黒猫紳士の首や両手首、足首に、高速回転するボールペンが突き付けられた。ペンが空気を切る、キュイーンという音が、部屋を満たす。

「何をする気だ!?」

 女学生は、黒猫紳士の上に馬乗りになった。

「わかんないの? 美男が無防備な状態で、横たわっているのよ? やることは一つじゃない。ああ、そそるわ! 欲の炎が我が身を焦がし、あなたと絡めと心が叫ぶ!」

「やっ、やめろ!」

「こんなところでやめるもんですか。据え膳食わぬは男の恥、でしょう?」

「お前は女だろう」

「心の中に、雄を飼ってるからいいのよ」

「そんな無茶な!」

 恍惚とした笑みを浮かべ、女学生は言い放った。

「無駄話はこれくらいにしましょう。さぁ、処女を奪われたくなければ、静かになさい」

 黒猫紳士は意味を察し、顔を真っ赤にして怒鳴った。

「このド変態がーッ!」

 だが、この状況では体をもぞもぞするくらいしかできない。尊厳という尊厳を、全部はぎとられてしまった。

 黒猫紳士のズボンのチャックを、女学生が摘まんだ。

 もうだめか、と黒猫紳士があきらめかけた瞬間だった。女学生は、急に興味が失せたのか、横を向いた。

「ね、これくらい積極的にいかなきゃだめよ」

 ぽかんとしている少女に対し、女学生がぴしゃりという。

「返事はぁ?」

「ふぁあい……」

 あまあましい声を聴き、満足げに女学生が頷く

「大分よくなったじゃない!」

 黒猫紳士は露骨に不快感を顔に出して、言った。

「私は、ダシか!」

「ごめんね、ぶっちゃけあなた、私の好みじゃない」

「グサッとくるからやめろ」

「それに私、私に惚れたかわいい子とイチャイチャするのが好きなのであって、略奪愛とか趣味じゃないの。そういう本は好きだけど。あ、もしよければ読む? いい本あるけど。その子の前では開かないようにね」

「遠慮しておく!」

 女学生は最後に、ベッドと床に突っ伏した来客たちへ向け、言い放った。

「そうだ、媚薬のお香吸った上、二人とも私に襲われかけた挙句、お預け食らって、ムラムラしてるでしょ。せっかくだし私の部屋貸すから、ストレス発散でも……」

「遠慮しておくと、言っているだろうが!」

 顔を真っ赤にした黒猫紳士を見て、女学生はゲラゲラと、いつまでも笑っていた。

 

 相談室を出た二人は、向かい側のカフェに再び入店。

 テーブルに着いた黒猫紳士は、胸ポケットからジョッターメモを取り出し、ペンを握る。少女は飲み物をオーダーすると、腕を枕代わりにして突っ伏した。

「で、彼女の人気の秘密はわかったのか? 本と何か違いはあったのか?」

「ええ、回答自体は至極まっとう、あ……」

 少女が突然、フリーズした。

「どうした?」

「後半強烈すぎて、真面目な回答、全部忘れた」

 黒猫紳士は額に手を当てて、唸るしかなかった。

 

平和兵器

 黒猫紳士は、依頼を引き受けるかどうか迷っていた。

「その兵器の名前は?」

アクエリアスです。研究所の半径十キロ圏内に近づいた生物を、皆殺しにします。しかも、自己再生する上、再生するたびに強くなる。僕は、撤退を余儀なくされました」

 テーブルをはさんで向き合った青年は、恨めしそうな表情で言った。宝玉で装飾がなされた、ローブに身を包んでおり、黒つばの三角帽子をかぶっていた。白いグローブは、時折鈍く光っている。

「迂回するには、砂漠を超えるしかない、か」

 黒猫紳士は逆算する。どんなルートをとろうが、踏破に三日はかかる。装備もそうだが、何より食料が足りない。かといって、前の街に戻ったら、今度こそ捕まって収容所送りだろう。あの街を回避するにしても、やはり食料が足りない。

 隣に座っている、連れの少女が言った。

「砂漠もただの砂漠じゃなくて、何人も死んでいるんでしょう?」

「ええ。流砂が多く、数多の旅人がその餌食に。……畜生め、あんの兵器さえいなければ! 魔力で消し飛ばせるなら、僕が一撃で葬るのに! 何が平和を愛する博士だ! 結局作ったのは殺戮兵器じゃないか!」

 両こぶしでソファを叩いた。青年のグローブから火花が散り、ソファに立てかけてあった松葉づえが倒れた。黒猫紳士は、博士について質問したかったが止めた。それ以前の問題だからだ。

「でも、博士は悪くない。博士は間違いなく、世界平和を目指していたし、実際平和のための活動もしていた。悪いのは、兵器だ。兵器は、兵器として生み出された時点で、悪! この世に存在してはならない。あなたがたも、それに異論はないはずです」

 彼は腕利きの魔力使いに見える。そんな彼が、歯が立たないような化け物。どう考えても空腹で死ぬリスクより、戦闘で少女を失う可能性の方が高い。

「この依頼残念だが……」

 黒猫紳士の言葉を遮り、青年は言った。

「もうすでに、腕利きの傭兵を二人、送り込んでいます。あなたがたにはその援護に回っていただきたい」

 その言葉を聞いた瞬間、少女がソファから飛び降りる。

「大変! ねこさま、助けなきゃ!」

 少女のわがままを聞く、命も守る。両立させる答えは、一つしかない。

黒猫紳士は舌打ちをこらえつつ、席を立った。

「引き受けよう」

 

 だだっ広い荒野の奥に、研究所らしき建築物が見える。黒猫紳士の目の前には、白線が書かれている。白線を跨いで数メートルの所に、二人の遺体が転がっている。穴だらけで、見るに堪えない。

「え……」

「どうやら、想像以上の化け物のようだな」

 遺体の上に、白色のクリオネが浮かんでいた。頭部と腹部が、赤くぼんやりと点灯している。滑らかな流線型のボディには、接合部と思わしき線条痕。おそらく、こいつがアクエリアスなのだろう。

「君は、白線の内側で待機していてくれ。敵を討つ」

「ねこさま、無理しないで」

 黒猫紳士が白線を乗り越えた瞬間、アクエリアスが動いた。背部から八発のミサイル、両ヒレからはレーザーをぶっ放してきた。

 黒猫紳士は、バック転を繰り返し、全て回避。お返しとばかりに、杖を投擲する。杖はアクエリアスの頭部を殴打。アクエリアスが硬直したのを確認し、跳躍。ブーメランのように帰ってくる杖をキャッチ、そのままアクエリアスの腹部に突き刺した。

「あっけないものだな」

 アクエリアスの動きが止まり、ゆっくりと地面に落下していく。

 黒猫紳士は、杖を引き抜き、着地。バレリーナ並みのしなやかさと、アスリート並みの跳躍力。生まれつき持った猫の特性を、日々の磨いた賜物のだった。

 遺体に近づき手を合わせると、二人のバッグをあさり始める。片方は焼け焦げて使い物にならなかったが、もう片方には着火式の爆薬が入っていた。

 妙な駆動音。慌てて顔を上げる。

 アクエリアスの機体から、幾本ものコードが伸びた。コードはアクエリアスの創傷部を瞬時に補修。さらに、アクエリアスは不気味な音を立てて、変形していく。黒猫紳士は何度も、杖で刺突。しかし、再生速度の方が早かった。

 アクエリアスヒレから人の手のような物が生え、杖をつかんだ。

「何!?」

「ねこさま、危ない!」

 黒猫紳士は、地面に突き刺さった蕪を引き抜くように、杖を抜いた。直後、黒猫紳士の頭頂部スレスレをレーザーが通過した。

 距離をとり観察する。すでにアクエリアスの下半身も、二本に分裂、人の足を模していた。頭部には人の顔らしき、凹凸が浮かび上がっている。

 アクエリアスは腰をかがめると、両腕を大きく振り、駆け出した。

「怖っ!?」

 急速接近するアクエリアスの手から、金属の棒が伸びた。黒猫紳士は杖で受け止める。三度にわたって撃ち合った。そして、気が付いた。打ち合うごとにアクエリアスの力も、スピードも、技術も、上がっているのである。

「とりあえず、いったん距離を……」

 悪手だった。レーザーとミサイルが押し寄せてきたのである。さっきまで優勢だったはずなのに、今は足を後方へ動かしている。

 速い。同じ一本の杖とは思えない。

「杖に殺意を込める」

「本気!?」

「これ以上、学習されたら負ける。再生できなくなるまで、徹底的に潰す!」

 黒猫紳士は殺意で心を満たし、呼応して生まれた魔力を、杖に込めた。すると、紫色の光が、杖を包んだ。

 杖は、敵の武器をたやすく切断。そのまま胴を真っ二つにした。その後も、何度もアクエリアスを切り付け、細切れにしていく。

「消え失せろ!」

 懐から、先ほどの爆薬を取り出した。ライターで火をくべて、アクエリアスの残骸に放り投げる。耳を塞ぎ、後ろを向く。地響きが起きたのを確認し、再び杖を構える。硝煙が辺り一帯を包んでおり、前がよく見えない。

 しばらく様子を見ていると、不気味な駆動音が聞こえてきた。続いて、紫色の光が二本、浮かびあがる。

「馬鹿な、再生能力も向上して──!」

 言い切る前に、光が黒猫紳士を襲った。髭で空気の流れを読み、二本の光を杖でさばく。

 殺意の魔力で、身体能力を強化してなお、それを超える攻撃速度。受け流しているにも関わらず、腕が悲鳴を上げるほどの、圧倒的暴力。視覚だけでは、どうにもならない。五感を駆使し、先読みに先読みを重ね、無意識で体を動かし、ようやく戦いになるレベル。しかも、敵は一撃ごとに学習、強化されていく。

 負けるかもしれない。一度そう思うと、心が不安で乱れ始めた。

「くっ!」

 折れそうになった心を、もう一度立て直したもの。それは、スピネルの声だった。内容までは聞き取れなかった。しかし、十分だった。守るべきものがある限り、黒猫紳士は倒れない。敵を殺すまで、戦い続ける。

 極限の状況で、ついに限界を超えた。体が軽くなり、生気がみなぎる。集中力が増し、敵のパターンが読めてきた。

 二本の刃を受け流し、全霊の袈裟斬りを試みる。今まで生きてきた中で、最高の一太刀。間違いなく、最速最重最強の一撃。アクエリアスは両の杖で、受け止めた。だが、黒猫紳士の力がわずかに勝っている。アクエリアスの首に、じりじりと、杖の先端が迫る。

「人は戦いの中で成長する! それを考慮しなかったのが、貴様の敗因だ!」

 あと少し、あと少しで、首を断てる!……というところで、杖が止まった。

「は?」

 黒猫紳士は目を疑った。アクエリアスの脇から、手がもう二本伸びて……。

アクエリアスは成長速度も成長する。この我に、付け焼刃の技術は通用しない」

 計四本の杖によって、黒猫紳士は弾き飛ばされた。

 鍛え抜かれた筋肉や魔力、優れた体幹や平衡感覚、培ったノウハウや直感、その全てを駆使した。それでも、手足には火傷を負い、わき腹をえぐられ、視界は血塗られた。敵は黒猫紳士が相対したどんな敵よりも強く、しかも強くなり続けている。

「貴様が、倒れるまでッ! 貴様を! 永遠に! 斬り続けるッ!」

 世界が歪み、呼吸が乱れ、手足の力が抜ける。そのときになってようやく、少女の言葉を、耳が認識した。

「……! ……がって! 下がって!!」

 ダメだ。下がっては、勝機を逃す!

 心の中で叫びながらも、一歩後ろに下がった。それが限界だった。無理して下がった代償として、足払いにかかってしまった。仰け反る体、近づく地面、弾き飛ぶ杖、見える青空、そして死──。

 首を刈り取られる寸前、アクエリアスの動きが止まった。

「あれ?」

 転んだ時に、白線を超えていたのだ。

 泣きじゃくる少女に抱かれ、黒猫紳士はようやく正気に戻った。

「君は、命の恩人だな」

 あたりを見回す。地面には、弾痕やミサイルのクレーター、レーザーによって開いた無数の穴、そして自身の靴によってえぐれた跡が点在していた。どうやら二度目の復活後も、レーザーや、ミサイル攻撃はなされていたらしい。目の前の脅威を、やり過ごすのに必死で、わからなかったが。

「あれだけ戦っておいて、追撃しないのか」

 アクエリアスの第三形態。それは、クリオネを模した、白いコートを羽織った女性。背部には、バックパックに似せた、ミサイル発射装置。腕が四本あることを除けば、美麗と言っても、過言ではなかった。光杖は魔力によって再現していたようで、今は消失している。

 少女は、涙をぬぐうと立ち上がった。黒猫紳士が止める間もなく、アクエリアスへ向かって言い放った。

「なぜこの場所を守るの?」

「創造主である博士の、研究所を守っている。博士は平和主義者で、戦争から身を守るために、カルマポリスの技術協力を得て、我らを制作した。我らの役目は、博士を守ることだ。戦闘行為も、お前たちの力を模倣し、上回ることで、戦意を喪失させるのが目的であって、殲滅ではない」

 アクエリアスはあっさりと、返答した。

 なぜここまであっさりと、呼びかけに応じたのか。そしてなぜ、対話できる事実に誰も気づけなかったのか、疑問に思った。だが、よく考えれば、当然だった。

 彼女は非戦闘時、研究所にいる。対話するには、いったん戦闘して外へおびき寄せ、防衛圏外から話しかける必要がある。しかし、今までアクエリアスと戦って生き延びた人は、ほとんどいない。対話にたどり着く前に、全員戦死してしまったのだ。

 しばらく、問答が続いたが、少女の一言で、話が進展した。

「命令は、いつのものなの?」

「五年前だ。自室でしばらく休憩し、すぐ戻るから、それまで研究所を守れと」

「えっ……五年間、博士は自室から出てないの?」

 でたらめよ! と少女は取り乱す。

「博士は、他の人間たちとは違う。約束を破らない。それが、信念だからだ。例えば、博士は超強力な爆弾も、我々のような強力な兵器も、多く作ることができた。しかし、最低限の兵器しか作ることはなく、他者へ向けることもいっさいしなかった。博士は平和を守ると、神に誓ったからだ。この例からわかるように、博士が約束を守らないことなど、ありえない」

 少女はしばらく考え込んでから、静かに口を開く。

「『守れなかった』という可能性は?」

「何?」

「博士がもし、死んでいたとしたら……」

「死とは、なんだ?」

「えっ?」

 黒猫紳士は、思わず苦笑いした。あんなに高度な知能を持つのに、こんな、初歩的な欠陥があったとは。

「博士に関わることなら、聞いておかねばならない。『死』とはなんだ?」

「人は完全に機能を停止すると、死ぬ。死ぬと死体となり、二度と修復できない」

 と、スピネルは二人の傭兵の遺体を指さす。

「人は、修理すれば治るものではないのか?」

「ええ、でも限界があるの。自分で治せないレベルの怪我をすれば、死ぬ。死んだらもう、元には戻らない」

 一呼吸おいて、少女は言った。

「博士が、死んでいるかどうか、確認していい?」

「わかった」

 研究所は長方形で、飾り気のない建物だった。窓の数も最低限で、生活感がまるで感じられない。周囲の雑草はのびのびと育っており、人の出入りがなかったことを強調していた。内部は大小さまざまな機械や装置があったものの、いずれも機能を停止している。

 施設の最奥に、博士の私室があった。扉はさび付いており、ドアノブは回せなかった。

「開けてくれ」

 アクエリアスは頷くと、指先からレーザーを照射し、ドアの留め金を切断した。ゆっくりと扉が開く。

 シンプルな部屋だった。右手にベッド、左手に作業机と丸椅子。机の上には、資料とモニターがセットされていた。しかし、肝心なものがなかった。

「死体がない!?」

「ここにあった死体は破棄した。死体は死体、それだけだ。死体と博士に、何の関係があるのだ?」

 アクエリアスは至極当然と言った様子で答えた。

 少女はしばらくの間、呆然としていた。黒猫紳士が頷いて見せると、ようやくか細い声を出した。

「人が死んだら、死体になるのよ」

 アクエリアスが突然、少女の方を向いた。そして、怒りとも、憎しみとも、哀しみともとれる表情で叫んだ。

「理解不能! 理解不能! 博士曰く『君たちへの愛は、永遠だ。我が娘として、永遠に愛し続ける』。博士は、父さんは、嘘をつかない!」

 少女は、首をゆっくりと横に振った。

「愛は永遠でも、命には限りがあるの」

 アクエリアスはしばらくの間、瞬きすらせず静止していた。やがて、ゆっくりと口にした。

「理解した。博士は二度と、帰ってはこないのか」

 黒猫紳士とスピネルの表情を見て、アクエリアスは悟ったようだった。

「そう、なのか……そう、だったのか」

 しばらく無言になり、重々しく、口を開く。

「この苦しみを幾度も繰り返し、なおも立ち上がるのか。人は、強いな」

 心なしか、アクエリアスが悲しそうに見えた。

「私は、この『永遠の別れ』という耐えがたい苦痛を、千を超える人々と、その知人に味あわせたというのか。博士は、平和を望み、我々を生み出したのにも関わらず」

 しばらくの間、少女のすすり泣く声が、部屋を満たした。

 あの対話不能と思われたアクエリアスを、説得してしまった。黒猫紳士は少女の成長に、驚きを隠せなかった。同時に、二人の力になりたいと思った。

「供養しよう」

 黒猫紳士が言った。

「くよう?」

「原始より受け継がれてきた、死者を悼み、敬意を払う儀式だ」

「了解した」

 彼女の目覚ましい働きぶりにより、あっという間に、慰霊碑が建った。研究所の廃材で作った四角柱に、博士の本名を刻んだだけの物だったが、十分だった。

 三人で、しばし、黙とう。

 黒猫紳士が目を開くと同時に、アクエリアスが言った。

「私も、あなたたちの冒険についていきたい。一人でも多くの人の命を救い、平和を守るという使命を、今一度果たしたい。この身が朽ちるそのときまで。それが私の償い」

 少女がこちらに期待の目を向けてきた。黒猫紳士は、少女の頭を軽く撫で、うなずいた。

「行きましょう」

 三人が歩き出した瞬間、まばゆい光が放たれた。アクエリアスは慰霊碑に激突。間を置かず、破裂。赤い液体と共に、眼球や、手足、内部のパーツが、黒猫紳士たちに降りかかった。

「やった、やったぞ! 討ったぞ! みたか、このド腐れロボットめ! やっぱり、非戦闘時が弱点だったな! サイッコーにスカッとしたぜ! ひゃははははははははは!!」

 アクエリアスを殺した主を見た。ローブに身を包み、松葉杖をつく青年。黒猫紳士たちにアクエリアス破壊を依頼した、あの青年だった。彼は、立ち尽くす二人を無視し、高笑いしながら去っていった。黒猫紳士に止める気力はなく、少女はショックで動けなかった。

 慰霊碑の残骸を眺める。もはや、無残に破壊された黒い物体としか、言いようがない。

「どうして、こうなっちゃったんだろう」

「なるべくして、なった。それだけだ」

 原型をとどめていたのは、小さなチップ一枚だけだった。

味の到達点

 街のあらゆるところで、揚げ物が売られていた。店の出入り口の上には、カニや牛、エビといった食材の、巨大模型が飾られている。その周囲を、原色をふんだんに使った派手なのぼりが囲んでいる。これだけでも特徴的だが、さらに目を惹くものがあった。のぼりの文字だ。魚の油揚げ、ジャガイモの油揚げ、肉の油揚げ……。

「ねこさま、油揚げって、豆腐の揚げ物じゃなかったっけ?」

「ああ、そのはずだ。薄切りにして揚げたもの、のはずだ」

「だよね、そうよね。でも、なんだか不安になってきた」

 黒猫紳士は、少女の長髪を撫でた。ダブルスーツに、食べ物の匂いがつかないか若干不安だった。

 ビル風が吹きつける。少女の黒いジャケットが風になびき、白いシャツが見えた。黒いニーソックスの上で、スカートが踊る。釣り目に似合わぬ、幼さが残る顔つき。その表情には、困惑が見て取れる。

 数千人規模の小さな街にも関わらず、アーケードは人で満ち満ちていた。観光客もたくさん訪れているようで、客引きたちが、必死に呼びかけている。何もないのに、お祭り騒ぎ。いるだけでも、気分が高揚してくる。旅行記のコラム程度なら、軽く埋められそうなインパクトである。

 少女が歩みを止め、眼前の店舗を指さした。

「あれ、串カツよね」

「どう見ても、串カツだな」

 豚油揚げの串刺し――という名の、串カツを売っている店に、入ることにした。店内は広々としていたものの、店頭と同じく、装飾でごちゃごちゃとしていた。

 串にささった豚肉を前歯で噛みちぎりながら、黒猫紳士は質問した。

「なぜ、この町では、揚げ物を何でもかんでも『油揚げ』というんだ?」

 女将はこう答えた。

「これは、油揚げの人が作った『究極の油揚げ』にあやかっているの」

 黒猫紳士に横取りを阻止されてしまった少女は、露骨に残念そうな顔をした。もう一本注文するから、そんな顔は止めてほしい。

「究極の油揚げって、何なの?」

「ある人が作った油揚げは、とてつもなくおいしかった。食文化を一新するほどさ。しかしなぜだか、その油揚げが販売された日のことを、誰も覚えていないの。まぁ。今まで食べてきた、どんな食べ物よりも、おいしいということだけは、頭に残っていた」

「大げさすぎやしないか?」

「まあね。でも、その伝説が、飲食店の魂に火をつけた。みんな究極の油揚げにたどり着くため、いろいろ模索して、揚げ物屋が乱立したの。あやかって、揚げ物には何でもかんでも油揚げの名前を付けるようにもなった。で、今のこの有様なわけ。まあ、当然ながら、まだ誰も『究極の油揚げ』には、たどり着いていない。油揚げの人の一番弟子が、この町にもいるから、聞いてみなよ」

 

 目的の店は、すぐに見つかった。揚げ物屋激戦区の中でも、類を見ぬほど長い行列を作っている店が、それだったからだ。年季の入った老舗。店内は、他の店とは違い、シンプルな食事処といった様子。油揚げの人の弟子は、狐面を頭にかけた、老年の男だった。

「ああ、私がいかにも、油揚げの人の一番弟子だ」

「彼の油揚げは、どういうものだったんですか?」

「残念ながら、俺は知らないし作れない。だが、それに匹敵するという禁断の油揚げなら作れる。私と師しか作れない、幻の逸品だ」

「禁断?」

「この油揚げは飛ぶように売れた……という表現ではぬるい。仕事よりも、友達よりも、家族よりも、睡眠よりも、セックスよりも、禁断の油揚げを求めるようになってしまった。行列ができた挙句、警備隊が出動する事態に陥ったり、大量に買い締め、高額で売りさばく者が横行した。最終的には、国からのお触れで製造および売買が禁止されてしまった」

 想像以上だった。ここまでくるとドラッグに近い。そんな代物が本当に、豆腐の揚げ物如きで作れるだろうか。黒猫紳士の好奇心に火が付いた。

「そうしたら、わたしたちが食べたら、違法じゃないの?」

「この国では、禁止されていないからな。ただし、同じ客に売れるのは月に一枚だけだ。それ以上食べると、油揚げ依存症になっちまう。あと、二十歳未満にはふるまえない」

「そんなぁ~」

 少女が、露骨に残念そうな声を上げた。

 油揚げ依存症などという言葉ができるほど、すさまじいものなのか。黒猫紳士はますます、興味が沸いてきた。

「材料と製法は?」

「大豆はエンレイ、フクユタカ、トヨムスメなどの、複数の銘柄を交雑させ生み出した専用の品種。水は山脈からとれる、高濃度の魔力が溶け込んだ、高純度の軟水。にがりは、漁場から直接取り寄せている。昆布、イワシ、サバ、鰹、味醂、醤油、酒の海鮮出汁。そこに、うまみ成分を抽出し混ぜ合わせた、人口旨味成分を配合。二十以上の段階に分かれる独自製法で、季節ごとに各工程の温度・時間などを細かく調整している」

 油揚げ職人は、屋台の下に顔を埋め、漆塗りの小箱を取り出した。蓋を開けると、一枚の油揚げが置かれていた。

 屋台に並んでいる油揚げとは、まず色が違った。澄んだ黄色は、太陽の光に当たり、黄金色に輝いているよう。大豆由来の澄んだ香りが、鼻孔をくすぐる。口によだれがあふれ、手が伸びてしまう。

「何これ! 本当に食べ物!?」

 少女の言葉で、正気に戻り、手を引いた。

「これは、本当に食べて大丈夫なのか?」

「ああ、一枚だけなら、悪影響ない。油揚げを愛した、俺が保証する」

 黒猫紳士は、『禁断の油揚げ』を箸でつまみ、口へ運び、食す。

 あまりのうまさに味覚が麻痺し、味を感じない。クリスピーのような皮の触感と、うちのジューシーな触感だけが舌と歯から伝わる。快感が脳を刺激。めまいや動悸と共にすさまじい多幸感に襲われ、屋台に突っ伏す。一度飲み込むも、体の方が「まだ味わいたい」と口内へ吐き戻す。三回ほど反芻し、完全に味がなくなったことで、ようやく飲み込めた。

「もう、一枚食べられないのか?」

「これ以上、食わせられる禁断の油揚げは、ない」

 黒猫紳士は、奥歯を噛みしめ身を乗り出す。しかし、次の一言で一気に熱が冷めた。

「でも、この油揚げですら師匠は満足しなかった」

「はぁあっ!? これで?」

「師匠が味に満足したのは、後にも先にも一度だけ。伝説として知られる『究極の油揚げ』だけだ。味の到達点。あらゆる料理を、ぶっちぎりで超越した存在」

 この味の上。禁断の油揚げを食した黒猫紳士さえ、想像ができなかった。

「師は世界各地を回り、誰よりも熱心に、油揚げを布教している。今は南の方へ行っているはずだ」

 その後、たっぷりと油揚げ料理を堪能し、店を後にした。

 

 この味なら、どこで店を開いても行列ができるだろう。となると、重要なのは場所。知名度を上げるなら、大都市で店を開いたほうがいい。候補は必然的に絞られてくる。

 探すこと、三都市目。

「これは!?」

「どうしたの、ねこさま」

「こっちだ!」

 少女の手を引く。鼻に感じた、出汁と油揚げの素朴な香り。辿っていくと、遠くから、男寄りのハスキーボイスが聞こえてくる。

「旨い! 安い! しかしてヘルシー! 豆腐の揚げ物、油揚げは、いかがですか~!」

 声が近くなるにつれて、自然と歩みが早まる。少女も、興奮を隠せない様子だ。

「一噛みすれば、出汁がじわっと、あふれ出る! 豆腐の揚げ物、油揚げは、いかがですか!」

 たどり着いたのは、派手な和風屋台。赤いのれんには、目立つ黒字で『油揚げ』。

黒猫紳士は、のれんを上げ、先に少女を入店させた。そして、自身も後に続く。

 鉄板、出汁の入った鍋、そしてショーケースに陳列された、油揚げ。その綺麗なきつね色に、目を見開く。

「なんだ、あれは?」

 調理道具の他に、金属製の釜や、謎の装置、多重ロック式金庫など、奇妙なものが揃っていた。なぜ、こんなものが存在するのか、不思議でならない。

「いらっしゃい! メニューはこちらになるぞ!」

 メニュー表を差し出した店主。顔の上半分を、狐面で隠していた。和服を着ており、黒猫紳士に匹敵する長身。ポケットからは、クロノポリス製の懐中時計が垂れている。

 黒猫紳士は、開いたメニューを思わず二度見した。油揚げ料理だけで、二十品目以上もある。

 唖然とする二人。対して店主は、景気よく笑い声を響かせた。

「かっかっか! 油揚げは万能食材。できないことはあんまりない! どんな料理にも、奥ゆかしく寄り添う、気品あふれる食べ物なのだ」

 隣に座った少女が、悩まし気に聞いてきた。

「油揚げのサラダ、狐丼、焼き油揚げピザ……ねこさま、どうしよう?」

「とりあえず、手堅そうな所から行こう。稲荷寿司、きつねうどんを頼む」

 オーダーを聞くなり、店主は天井を突き抜けそうなほどの、大笑いを響かせた。

「油揚げのことを知っているとは、嬉しい限りだ。このあたりでは、油揚げを知らない人の方が、ずっと多いからな!」

 黒猫紳士の目の前で、店主は料理を始めた。

 白米と寿司酢を混ぜ、扇子で冷やした後、ゴマを加える。そして、稲荷用油揚げに、詰めた。五つ作ると、さらに盛り付け、しょうがを添えて完成。きつね色の稲荷を、酢飯の甘酸っぱい香りが、包み込む。

「こちらが稲荷寿司、そして!」

 湯で終わった麺を水切りすると、椀によそる。その上に、油揚げ二枚をのせ、海鮮出汁をたっぷりかける。カウンターに置くと、小皿に盛られた、ねぎを添えた。湯気がふわふわと登っていく。

 圧倒的早さ。まったく無駄のない動き。そして、見るだけで感じられる、油揚げへの愛。

「こちら、きつねうどん! お好みで七味やコショウをかけて、召し上がれ。味噌と白味噌も、用意してあるぞ!」

 少女は、稲荷を箸でつまんだ。手を添えて、ゆっくりと持ち上げる。全体をじっくりと眺めてから、鼻孔を動かした。そして、唇と唇の狭間に、上品に稲荷を押し込む。それから、猛獣の如く、残りの稲荷を食す。

「おいしい! 何これ!? 外がサクサク、中がふわふわ! こんな油揚げ食べたことない!」

 黒猫紳士は、うどんの出汁を嗅ぐ。濃厚な魚介の香りが、食欲をそそる。一口すすれば、怒涛の旨味が広がった。

「これは!」

 油揚げに出汁をしみこませ、食す。極限まで高められた大豆の甘みが、口の中にあふれ出る。そこに、染み出した海鮮出汁が絡み合い、味のハーモニーを奏でる。盛大に音を立て、麺をすすった、太麺のこしは、語るに及ばず。熱さと戦いながら、必死に揚げと、麺と、出汁に食らいつく!

「これは、私が食べたかった味どころではない。それを遥かに超えた味!」

「かっかっか! なんともいい食べっぷり。精魂込めて、作った甲斐があるというもの! 音、見た目、香り、触感、味。その全てを存分に堪能するとは、食の楽しみ方を心得ている。汝ら、とても初来店とは思えん!」

 油揚げの人は、両袖から次々と、油揚げを取り出した。まるで手品師。黒猫紳士は、思わず声が上ずった。

「なっ、服に仕込んでいるのか!?」

「無論だ。袖と胸裏のポケット含めて、五十枚収納可能!」

 お椀に、四枚を投入すると、特性海鮮出汁をたっぷりと注いだ。大豆由来のふくよかな香りと、出汁のうまみが混じりあう。店主は、箸すら使わず、豪快に食べていく。

 しかしその表情は、心の底から油揚げを好き、全世界へ知らしめようとしているにしては、味気なかった。

 料理を食べきり、しばらくたったあと少女が切り出した。

「あなたのお弟子さんの店に、来店したことがあります」

 少女が、先日の出来事を説明する。店主は、嬉しそうに笑みを浮かべる。

「あやつは、今最も私に近い領域にいる者。そして、いずれ私を超える者。なるほど、道理で」

 黒猫紳士は少しためらったが、覚悟を決め、口を開いた。

「『伝説の油揚げ』の真実について話していただきたい。私は、トラベルライターだ。油揚げの魅力を文に書き留め、多くの人へ広めることができる」

「知っている。黒猫紳士だろう。影響力も、実力も、ある程度承知しているつもりだ。汝に頼めば、油揚げをより多くの人に、より正しい認識で広めることができる」

 少女は、もう我慢できない、といった様子で立ち上がった。

「なら、聞かせてもらえるのね!」

「かっかっか! 無論だ。ただし――」

 油揚げの人は、油揚げについて語る前にこう言った。

「この話は、まあ、つまらん夢物語として、聞いてくれ。誰も信じてくれなかったし、お前たちも信じないだろう。大きく分けて三つだ。三つ話がある」

 

 一つ目の話だ。

 かつて、飢え死にしそうになった時、社に収められていた油揚げを食らった。今まで、肉しか食べてこなかった私は、その味に心奪われてしまった。そして、生涯を油揚げにささげることを決めた。

 人に化け里に下りた私は、老舗の油揚げ職人に、弟子入りすることに決めた。

 だが、『技術を教えるだけの時間はもう、残されていない』と断られた。そこで私は、彼の店の前で三日三晩、雨の中で土下座した。弟子入りではなく『家もなく、身寄りもない若者を匿う』という建前で、私は迎え入れられた。

 師は肝臓がやられており、いつ死ぬかわからない身だった。私は、一度教わったことを確実に習得し、二度と忘れぬよう、毎日必死に油揚げを作り続けた。油揚げの作り方だけではなく、人との接し方、生活方法、物の売り方、その全てを師から学んだ。

 三年後、ついにそのときが訪れた。死の数日前のことだ。

「お前にもう、教えることはない」

「しかし、まだ三年しか……」

「いいや、お前は私の先祖が、六百年かけて磨き上げ、私が三十年かけて学んだものを、たった三年で全て吸収してしまった」

「お前と出会う前、私は絶望していた。弟子がいなかった。先祖が作り上げた技術を、途絶えさせてしまった。たった数年で私の生涯を習得する、などということは不可能だった……不可能な、はずだった。きっと、お前は神から遣わされたに違いない。たった三年とはいえ、お前の師となれたことは終生の誇りだ。私の人生は、お前の技術のためにあったのだ」

「師よ!」

「お前の作る油揚げが、私の生きた証だ」

 私は師匠の遺書により、彼の全ての財産を譲り受けた。店を繁盛させるかたわら、油揚げの改良に精を出す。

 

「――その後は、師が見知っていた、油揚げ職人の下で、修行させていただいた。一人目は一か月、二人目は一週間、三人目は三日」

「期間が短いな。ずいぶんと控えめじゃないか」

 黒猫紳士はそう言いながら、焼き油揚げサーモンバジルオリーブオイル仕立てに、手を伸ばした。

「以降、師弟関係が逆転してしまったからな。あの時は、心が折れそうになった。自分が目指した先人たちはこの程度だったのか、と」

 少女が、食べている焼き油揚げピザを、落としそうになった。

「それで、どうしたの?」

「私はさまざまな調理法や、化学反応を図書館で学んだ。有識者にアポをとり、アドバイスをもらうこともあった。交配や遺伝子組み換えなど、先進技術も習得。同時に、世界各地を回り、最適な材料を、探し求めた」

 黒猫紳士は、こんな突拍子もない話を、信じることができた。『禁断の油揚げ』を食べていたからだった。しかし、本当にあの味が通過点でしかないとは。黒猫紳士は、ただただ、驚嘆するしかなかった。

「しかし、科学の力にも限界はあった。私は魔力を用いて、食材や調味料を、合成する術を学んだ。機械を用いた成分分析と、魔力による調理合成。しかしそこで、最大の難問に直面した」

 大きなため息をつくと、油揚げの人は、思いもよらぬことを言い出した。

「望む味にたどり着くために、霊薬に近い物質が必須だとわかった。そのためには死後十五分以内の、聖女の髄液が必要だった。もっとも、聖女特定のための魔導機も、専門家の協力の下、自作してしまったがね」

 

 二つ目の話。

 機械が反応したのは、一人の少女だった。数千人規模の小さな国で出会った、十四歳の少女。有名な貴族の、末裔。以前から、とてもおいしそうに油揚げを食べてくれる上客で、性格はまさしく聖女のようだった。

 私は、何をトチ狂ったか、彼女を人通りのない場所へ、呼び込んだ。背後から殺そうとしたが、振り向いた彼女の笑み見たとき──反射的に油揚げをふるまっていた。

「油揚げの美味しさを、世に広めるため、美味しさを追求していた。なのに、いつの間にか、美味しさを追求するために、油揚げを広めていた。目的と手段が逆転し、ただの自己満足と化していた。これでは、師匠の思いを踏みにじることになる! 客に配慮しない料理に、価値はない!」

 私は彼女に、自分がしようとしていたことを、懺悔した。しかし、彼女は怒るどころか、『もし、自分が死を待つだけの身になったら、せき髄液を提供する』と提案する始末だった。私は、もちろん断った。……そのときは。

 先の件で吹っ切れた私は、油揚げの布教に専念した。移動式屋台を相棒とし、人口の多い都市を中心に油揚げを布教。より多くの人に振る舞った。数々の著名人からも推薦された。作れば作るほど売れた。弟子入り希望者も、毎日のように押し寄せた。数か国で社会問題にまで発展するほどの人気を博し、「味覚の到達点」という、大げさな称号もいただいた。黄金の時代、最盛期だ。全てが私──否、油揚げの思うがままに動き、世界の中心になった気分だった。

「油揚げの味のすばらしさを、一人でも多くの人に布教する。その使命が、まさに現実のものとなった。だが……その日が訪れてしまった」

 各国を渡り歩き、再び聖女のいる街へ戻った日の晩。

 黒いコートにペストマスクという、不気味ないでたちの人物に、声をかけられたのだ。彼は、聖女の主治医を名乗った。

「彼女が階段から落ち、脳死状態になった」

 客の死、それはいつも突然やってきて、私を無力感に叩き落す。声を荒げ、鼻水垂らし、嘆き悲しむ私に、彼は「ついてきてほしい」と言った。

 彼についていくと、そこは少女の家だった。部屋には横たえられた遺体。ショックと絶望に言葉を失った。

「彼女は転倒した際に、頭の血管の内側に、カサブタができた。あと数時間で命を落とす予定だ」

 そしてペストマスクは、私の人生を決定づける、究極の選択を突き付けてきたのだ。

「彼女は、油揚げの材料になることを望んでいた。さあ、選べ。この子の脊髄液を抽出するか否かを。私はメスをとろう。処置もしよう。彼女に安楽を与えたのち、いっさいの痕跡もなく、脊髄液を抜き取ろう。斬るのは私だが、決断するのはお前だ。選べ!」

 私は誘惑に勝てなかった。「彼女は貢献することを望んでいた」。その事実に甘え、彼女の脊髄液を受け取った。

 屋台に帰った私は、寝食忘れて油揚げ制作に没頭。『砂糖を振れば、究極の油揚げが完成する』というところまで、たどり着いた。

 しかし、予想外のことが起こった。屋台に兵士がやってきて、私は取り押さえられてしまったのだ!

 

「黒のコートにペストマスクって怖っ!……ってそんなことよりも!」

 少女は、身震いしながらも、油揚げの卵包みをパクパク食す。

「どうなった? そのまま捕まったのか!?」

 一方黒猫紳士は、目の前に置かれた、油揚げの肉詰め煮が、冷めているのにも気づかず、話を促した。

 

 さて、最後の話だ。

 完成寸前までいった、十五枚の油揚げを、すばやく和服にしまい込んだ。

 そして、川辺の広場にある、処刑台へ連行された。右には大刀を持った処刑人、背後には介錯人。聖女の遺書を読んだ父親が、根拠もなしに私を、告発したらしかった。

 夜中に彼女に忍び寄り、殺そうとしたのは事実。人の遺体を用いて、料理を造ったことも事実。私は、自らの行いの非道さを自覚していた。だから、おとなしく処刑されることを選んだ。

 私は処刑人に聞いた。

「最後に油揚げを食べていいか」

 処刑人は、私の服から、油揚げを取り出した。が、その形を見て、臭気をかいだ瞬間、刀を捨て、狂ったように、むさぼり始めたのだ。解釈人も飛びつき、二人は取っ組み合った。

 わけがわからなかった。

「どうした!」

 聖女の父は、異常を察知。剣を手に、処刑台に上がった。取っ組み合う二人と、私を交互に見た。それから、大粒の涙を流し、何度も剣を処刑台に叩きつけて、言った。

「油揚げをよこせ!」

 同時に、取っ組み合う男たちの手から、油揚げが離れ、上空に大きく舞った。会場にいた観客も、その見た目と、においに晒された。自分の作った食べ物の、恐ろしさを目の当たりにした。私は、ついに人の支配する、究極の油揚げを作り上げて、しまったのだ。

 いっせいに、群衆が群がる。

「うわあああああああ!!!」

 私は、和服に仕舞われた油揚げを、群衆へ投げた。油揚げの匂いが濃くついてしまった和服も、手放した。

 人々は油揚げを求め、大混乱。私は、群衆に「まだ隠し持っているだろう!」と、暴行を受けながら、命からがら、処刑場から逃げ出した。全身泥だらけで、手足から血が垂れていた。私はそのまま、川へ飛び込み、意識を失った。

 あの油揚げを食べると、快感に脳を支配されて、ダウンしてしまう。その上、出汁には一過性の健忘を引き起こす、作用があった。揮発した出汁の臭気をかいだために、処刑場にいた全員の記憶から、その日のことは消えてしまった。――製造中に、油揚げの匂いを吸って、耐性があった、私以外はな。

 処刑場では、重軽症合わせて、百人以上のけが人が出た。私はその被害者の一人として処理された。

 罪を償うために、一連のことを役人に説明した。しかし、誰も信じてくれなかった。挙句の果て、精神病棟に強制入院。三か月過ごすごとになった。

 退院した後、街の人全員に謝罪した。やはり、誰も罪を信じてくれなかった。私は、罪を裁かれる権利すら、はく奪されてしまったのだ。

 その後に、研究者と共にとある実験をした。それは、十匹のネズミが入ったケージに、『完成した』究極の油揚げを入れたのだ。その結果、ネズミたちは狂ったように油揚げを取り合い、殺し合った。見事、油揚げを勝ち取った個体も、別のネズミたちによって腹を食い破られ、無残な死を遂げた。

「料理とは人々にささやかな幸福を与えるもの。美味しさだけを追求し、食した人を破滅させるものを、料理とは呼べない」

 そのとき、申し訳程度の天罰が、私に下った。精神性の味覚障害により、油揚げの味も、匂いも、触感も、何も感じなくなってしまった。

 

「あんなに、恋焦がれた油揚げの味が! あれほど求めた味が、もう、思い出せないのだ!」

 油揚げの人は、屋台に突っ伏し、むせび泣いた。しばらくして、ゆっくりと顔を上げて言った。

「『あれほどの騒ぎを引き起こした油揚げが、単なる豆腐の揚げ物であるはずがない』。そう思った人々は、いろんなものを揚げ始めた。試行錯誤され、さまざまな揚げ物が、生まれては消えた。そのうち、何が本物の油揚げかわからなくなってしまった。その結果あの町では、何でもかんでも、油揚げと言うようになったのだ。これが、あの町に伝わる『究極の油揚げ』の真実だ」

 もし、完成された油揚げが、白日の下にさらされていたら、どうなっていただろう。黒猫紳士は、思わず想像してしまった。油揚げを求め、獣の如く殺し合う人々。油揚げを食した人に群がり、その骨の髄まで食らいつくす人々。血で染め上げられた、処刑場……。

「ここまで話を聞いてくれた礼だ! 刮目せよ、これが『伝説の油揚げ』だ!」

 金庫から取り出したのは、円柱型の保存容器。円柱は黒く染まっており、上下に正方形の機械が取り付けられている。油揚げの人がスイッチを操作すると、円柱の黒が薄まり、一枚の油揚げが浮かんでいるのが見えた。

 ガラス越し、かつ暗幕がかけられているのにもかかわらず、その形は完璧というほかない。目が釘付けになり、よだれがほとばしる。食の快感に脳が支配され、世界が揺れる。一瞬、気を失いかけた。なるほど、香りをかぎ、汁が滴る音を聞き、舌で触り、味を知れば、人でいられなくなるのも、うなずける。

「食べちゃ……だめなの?」

 連れの少女が、目を輝かせて言った。

「それは、食べ物ではない」

 油揚げの人は、再びスイッチを押し、呪いの品を隠した。

 その瞬間、少女が催眠から目が覚めたかのように、首を左右に振った。顔がみるみる真っ青になっていく。黒猫紳士は、彼女の肩に軽く手を置いた。

「そして、今に至ると」

「ああ。私は、油揚げの美味しさを広めるため、各地へ赴き、布教している。味を広めるだけではなく、農家へ行き、大豆の育成法を教えたり、弟子に製法を伝授したり、大量生産するための機械の設計をしたりと、手広くやっている。その傍ら、人と料理の在り方を説く。それが、私なりの罪滅ぼしだ」

 一息ついて、油揚げの人は空になった皿を、見つめた。

「どうだ? そんな、私が作った油揚げは、おいしかったか?」

 黒猫紳士は少女と視線を交わすと、無言でうなずいた。

 油揚げの人は、にやりと口角を吊り上げると、狐面を軽く撫でた。

「私は、まだ道半ばだ。初めて食べた時の感動を、世界中の人に味あわせるまで、私は腕を磨き続ける。一度地獄を見た程度で、立ち止まるわけにはいかない!」

 少女が思わず、吹いた。

「まだ腕を磨くの!?」

 かっかっか、と何度目かの大笑いを響かせると、油揚げの人は言った。

「油揚げは万能。故に、味や質の劣化は、油揚げの力を十全に引き出せぬ、私の落ち度」

 黒猫紳士は、思わず拍手してしまった。

「油揚げへの無限の愛、あっぱれだ」

 油揚げの人は会計伝票を差し出すと、野望に満ちた目を、二人へ向けた。

「次会うときは、もっと旨いものを食わせてやる。覚悟しておけ」

「その言葉、私の旅行記に刻んでやろう」

 黒猫紳士は受けて立つ、と余裕の笑みを浮かべ、会計伝票を受け取る。

 伝票を覗き見た少女の顔は、再び青白く染まった。

「ねこさま、どうしよう。お金足りない」

代理人

 夜の店や、カジノ、酒場が立ち並んでいる。看板のネオンで、夜であるにも関わらず、昼のように明るい。歩いているだけで目がチカチカする。道端では、ホストやキャバ嬢が、客引きに精を出している。地面には空き缶やゴミが散乱しており、空はたばこの煙で霧がかっていた。

 黒猫紳士は、腰に携えた杖に手をかけ、隣を歩く少女に声をかけた。

「真面目な国民性だと聞いたが、こうも落ちぶれているとは。本当に裏道へ入るのか?」

「表通りよりも、面白いネタが見つかりそうでしょ?」

少女は白いシャツと黒いスカッツを着ていた。黒の長髪が、街灯の光を反射してきらめく。幼さ残る笑顔は、いたずらっ子のそれに近い。

「原稿を書く前に死んでは、元も子もない」

「ねこさまなら大丈夫」

黒猫紳士は、ため息をついて彼女に続いた。

 

繁華街の、高いビルとビルの狭間。ポリバケツのゴミ箱と、割れた酒瓶が散乱し、ネズミが這いずり回る場所。

 二人の人がいた。

一方は、肩まで伸びる黒髪をなびかせ、ペストマスクをかぶり、漆黒のトレンチコートを着た医師。否が応でも死を連想させる。

もう一方は、学生服を着た若者。顔は白く、体は細く、生気がない。

死の化身が、目の前の若者へ、メスを向けていた。

「助けなきゃ!」

旅行記のネタを探していたら、殺人現場を見つけるとはな!」

 黒猫紳士は、ペストマスクと若者の間に割って入った。少女は、若者を避難させようと手を引っ張る。しかし、なぜか彼は逃げようとしない。恐怖で足が動かないのか?

「ねこさま、お願い! 時間を稼いで」

「言われなくても、やってやるさ」

 狭すぎるため、杖を振るえない。黒猫紳士は、敵の頸部を爪で狙った。対してペストマスクは身体をのけぞりかわした。続けて何度も爪をふるったが、やはりかわされてしまった。

敵の動作自体は遅い。しかし、黒猫紳士の攻撃前に、すでに回避を完了しているのだ。五感が異様に発達している上、人体構造を完璧に把握しているらしく、どんな攻撃も紙一重で当たらない。

「やめろ!」

 突然の出来事だった。若い男が、ペストマスクをかばったのだ。

「なっ!?」

 黒猫紳士、驚いて攻撃を止めてしまった。

 ペストマスクは、若者の首をメスで一閃。若者は、静かに地面へ倒れた。なぜか血の一滴も出なかった。

「しまった」

爆発音と共に、煙が満ちる。おそらく、発煙手榴弾

「待て!」

 煙が消えるころには、黒医師は跡形もなく消えていた。

 少女が若者に駆け寄る。黒猫紳士は奴を追跡するか逡巡したが、あきらめることにした。少女の安全の確保の方が、先決だ。

 青年は、メスで首を斬られたにも関わらず、傷ひとつなかった。公衆電話で救急通報。しばらくすると、サイレンを鳴らして救急車両が到着。

「ねこさま、彼! 息してない! どうしよう!」

「どうしようもない。病院へ着くまでに、心の整理でもしておけ」

 

 死因は脳梗塞と診断。どう見ても、自然死だという。

廊下で担当医に詰め寄り、奴について話した。

「仮に、傷をつけずに手術できる超能力者がいたとしよう。しかし、目視すらせず、パスタの麺よりも細い血管を、正確かつ自然に詰まらせるような芸当が、人にできると思うかね? 少なくとも、この道四十年の私には、無理だ」

 少女は、腑に堕ちない表情を浮かべた。医者は、眉間にしわを寄せ、しばらく黙ったあと口をひらいた。

「死神代理人という妙な噂が流行っている。特定の場所を指定し、自殺志願者を誘導、病死や事故死に見せかけて殺す。裏路地や廃墟などを探れば、もしかしたら巡りあえるかもしれない。まあ、探ったところで、無駄足だろうがね」

「なぜ、無駄だと決めつけるの?」

 今まで黙って聞いていた少女が、反論した。想像以上に声が大きく、周囲の人がいっせいにこちらを見た。

 医師は答えた。

「自分を殺し、進みたい道を諦め、まわりが安全だと勧める道を選び、やる気が出ず、成果も出ず、自分を責め、破滅していく。気づいた時には、自分が何をしたかったのかも思い出せない。そんな人ばっかりなんだよ、この国は。絶望した人に、希望の言葉を浴びせても、何の意味もない」

 

 夜の町は、仮装イベントのポスターや広告で、埋め尽くされていた。道端には時折、ブーツを枕にして寝ている男や、酔いつぶれて吐いている人がいる。すれ違う人は、誠実そうな人ばかりだが、一様に表情が暗い。

 黒猫紳士は、隣を歩く少女を見た。真っ赤な顔で、呼吸を荒くしている。ここまで激怒している姿を見たのは、初めてだった。

「絶対に許さない。弱者を選んで殺すってなに? 最低最悪の殺人鬼じゃない。……ねこさま、ペストマスクの出現しそうな場所を探れない?」

「探してどうするつもりだ」

「話を聞いて、説得する。それができなかったら……」

 少女は眉間に深いしわを寄せ、拳を握り締める。

 黒猫紳士は、前を向いたまま答えた。

「この件からは、手を引け」

「わたしにはできないっていうの?」

「危険すぎる。奴は私よりも上手だ。今度ばかりは、私が生き残る保証はない」

 歩みを止め、少女と向き合う。決意はすでに、固まっているようだった。

 黒猫紳士は、大きなため息をついた。

「あの兵器を説得できたことで自信がついたのだろうが、今度ばかりは無理だ」

「『不可能だと思いさえしなければ、君はもっとたくさんのことを成し遂げられる』って、ふだんから言っているのは誰かしら?」

 黒猫紳士は、さらに大きなため息をついてから言った。

「期限一週間。これ以上は譲歩できない。まず、役所と図書館を当たろう」

 

 奴の影響力は想像以上だった。

数年前から突然死──病気の発症から一日以内の死──の数が大幅に増加していた。年齢別の割合も変化している。以前は五十台から八十代の高齢者が、大半を占めていた。しかし、今は二十代~五十代が圧倒的に多い。それに対し、自殺者数は激減。

雑誌を調べてみると、同時期に死神代理人の噂も流行りだしていることがわかった。

二次災害も多発している。模倣犯、会いたいがために他者に自殺を迫る者、自殺者に密着するマスメディア、奴の活動を称賛・支援する団体、神とあがめる新興宗教団体……。

さらに紙面には、知りたくなかった事実も載っていた。この国の若者の、自殺の理由だ。

「なんてことだ……」

学生は定められたレールに沿って、受験勉強を必死に戦い、就活を目指す。点数と協調性が重視されるため、個性は恥として晒される。上位の学校に入るため、夢や自分の大好きなことを諦めることとなる。

もちろん、勉強をすることに意義を見出せず、親や教師との軋轢を生む学生。個性が強すぎるために同調できず、同級生から村八分にされる学生もいる。

「しかし、卒業さえすれば……」

いい企業に入るため、勉強し、面接で受かるために下調べしたりする。だが、いざ就職活動すると何十という不採用通知をもらう。当然である。就職するにあたって求められること、それは──

「捨て去ったはずの個性や特技、夢」

成果主義で生きてきた若者たちは、就活失敗を自分の責任と思い込む。就職試験は人の総合力をテストする。彼らにとって不採用通知は人格の否定、無価値の烙印。

しかも、就職が決まったとしてもバラ色の人生があるとは限らない。待っているのは、奴隷のような激務、最悪の上司だったりする。しかし、離職すれば生活が困窮することは目に見えている。心身の限界を超えて働いた結果、待つのは気鬱と自殺。

たとえ仕事を止められたとしても、ベルトコンベアのように生産された若者は、特別な技能を持たない。安い給料で何となく働き、希望もなく、死までの暇を潰す人生。

「住民の生気がないのはそういうことか」

 真面目がすぎるが故の、いびつな社会構造。こうした背景が死神代理人を野放しにしているのだ。

 奴を悪と断じていいのかは、定かではない。だが、奴がいるせいで、この国は負の方向へと加速しているのは、確かだった。

 

大きなテーブルを占領し、死に物狂いで書籍を漁る少女の眼前に、資料を突き出した。

「わたしに協力する気になった?」

「いいや」

 黒猫紳士は、資料のグラフを指さした。

「噂の前後で、全体の死者数は変わっていない。彼を頼るような人は、どの道、自殺を強いられる。『どうせ死ぬのなら、少しでも生の苦しみを短く、楽に死にたい』という人もいるだろう。同情すべき点もあるんじゃないのか?」

「ええ。でも、生きてさえいれば希望はあるわ。変われるかもしれない、という希望が」

 顔を上げ、少女がこちらを睨む。

「自分を死ぬまで追いつめるような人が、変われると思うのか?」

「自分がどう生きるかは、過去の出来事ではなく、今の自分が決めるの。だから、人は変われる。変わろうと思った、その瞬間から」

「夢物語だ。過去と他人は変えられん」

「わたしが証明して見せるわ」

 理屈で彼女は止められない。黒猫紳士は、しぶしぶ本音を絞り出した。

「お願いだ。止めてくれ。私は! 君が死んでしまわないか、不安で仕方ないんだ!」

 少女は、椅子から立ち上がると、息を大きく吸い込んで言った。

「それは、あなたの問題でしょ?」

 もはや、彼女を止める手立てはなかった。

死神代理人の出現地点は、すでに絞り込んである。遺体の発見場所が、人目にはつかないものの、発見されやすい場所ばかりだからだ。おそらく、遺体が綺麗な状態で発見されるよう、配慮しているのだろう。

 

 夜の繁華街を抜け、その奥のスラム街へ突入。暗い通りを歩いていると、ハエの羽音が聞えた。それも、一匹や二匹ではない。

 少女の手を引き、音のする方へ向かう。数分歩いた所で、少女も羽音に気付いたようだ。嫌な汗が肉球から分泌され、手に力が入る。

「ねこさま、あれ……」

 ズボンにしがみつく少女。その指さす先に、それはあった。

 地面に倒れている女性。目も口も開いており、乾燥していた。街頭に照らされた肌の色は、黄色に近く、唇も茶色。口も胸もまったく動いていない。

「遅かったか」

 黒猫紳士は、あれは人間だが人間でない、人形のようなものだと自分に言い聞かせた。そうすると不思議と何も感じなくなる。壁に寄りかかり、ゆっくり深呼吸。脳に酸素を送り、成すべきことを考える。

 黒猫紳士は、手を合わせてから遺体を探った。

やはり、傷がない。少しでも抵抗したら、どこかに痣でもできているはず。転倒時にできたであろう頭の傷を除いて、まったくないのだ。自ら殺されに行ったか、何らかの手段で傷を修復したか。

 なんにせよ、黒猫紳士が対処できる範疇を超えていることは、確かだった。

 少女が、力なく地面に座り込んだ。口を押えると、嗚咽する。

「……うぅ……絶対に、許さない」

 女性の顔が、少女の顔に見えた。

「警備隊に通報しよう。急ぐぞ」

 

 それから数日の間、資料集めと探索に集中した。

成果はあった。図書館に、自殺のメカニズムに関して書かれている書籍があったのだ。

自殺したい、と思うことはそう珍しくはない。だが、『今すぐ死ななければ!』という自殺衝動に駆られる人はそう多くない。自殺願望を抱いている人の割合に対し、自殺者数が非常に少ないのはこれが理由なのだ。では自殺衝動の原因はというと、それは特定の脳内物質の極端な低下であり、三十分もすれば治る、一過性のものだった。

「つまり、自殺願望があっても自殺衝動さえ抑えれば、人は生きていける。相談できる人が一人でもいれば理想的だが、電話をかけるだけでもいい。しかし、死神代理人は自殺願望を持つ人を殺す。生きていけるはずの人を殺しているも同然だ」

「じゃあ、やっぱり彼は……」

 黒猫紳士は本を閉じると、少女へ向けてうなずいた。

「君の言う通り、殺人鬼だ」

資料の方は集まったが、代理人本人に関しては、大した成果もないまま時間だけが過ぎていく。黒猫紳士は、このまま努力が報われないことを祈った。一方で、それが叶わないことも悟っていた。

努力は、必ず結果となって現れる。だが、その結果は、本人の思い通りになるとは限らない。

 

 この町に来てから、今日で六日目。今晩、見つけられなかったら、あきらめることになる。今日の場所は、スラム街の最奥にある、裏路地だった。

 ちょうど、警備隊の拠点と拠点の間にあり、通報から到着までタイムラグがある。しかも、繁華街にて仮装パーティが行われており、人通りはゼロに近い。最有力候補だった。黒猫紳士は、自分の優秀さを呪った。ハズレであってくれ。

「どうやら、当たりのようね」

 小規模の人だかりができていた。スーツを着込んだ男女や、ボロをまとった老人、ラフな格好の若者、中には少女よりも年齢が低そうな学生もいる。種族も犬人から鳥人までさまざま。共通しているのは、目が死んでいることだけだった。

 通路の反対側に、黒い影がうごめいた。カラスが羽ばたき、寒々とした風が、道を吹き抜ける。

 暗闇の中、まるで蜃気楼のようにペストマスクが浮かんだ。続いて、トレンチコートの輪郭があらわとなる。歩いているはずなのに、まったく音が聞こえない。猫髭を前面に展開しているのに、空気の振動もほとんど感じられない。必死に鼻を利かすが、匂いもしない。

 死だ、あれは死だ、と黒猫紳士は思った。死とは音もなく、においもなく、目にも映らず、触れることもかなわず、当然味もない。何の前触れもなくやってきて、当人は気づきすらしない。当然だ。死が訪れたとしたら、当人の五感はすでに閉ざされている。

 黒猫紳士と少女は、代理人と対峙する。三人の周りを、自殺志願者たちが囲む格好となった。

 ペストマスクの内側から、暗く、重く、よどんだ声が発せられた。その声は同時に、聞く者を安寧へと導く、危うい優しさに満ちていた。

「我々は、生まれさせられた直後に、嵐の絶えない苦しみの空へ放り投げられる。一面海で、進んでいる方角も進むべき道もわからない。我々ができることは、理不尽に現れる暴風に飲まれながら、墜落するまでの間、飛び続けることだけ」

代理人は、まるで楽曲を指揮するかのような優雅なジェスチャーを交えた。一目見ただけで、場を支配する腕は一流だとわかった。少しでも油断すれば、飲まれる。たとえ、それが黒猫紳士であっても。

「家族も、友も、地位も、名誉も、愛する人も、いずれは手放さなければならない。最後には、全てなくなる。最初から、人生に意味などない。ならばせめて、幸せな人生を求めるのが道理。そして、私の考える幸せな人生とは、自分の人生に納得することだ」

「納得って?」

 まるで、生徒が教師に質問するかのように、少女が言った。

 死神代理人は、しばらくの沈黙。一人一人と視線を合わせたあと、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「『この世の苦悩から解放される境地』のことだ。人は生きている限り常に、何かが手に入らない苦しみ、失う苦しみに悩まされる。現実との向き合い方を根本的に変えない限り、その苦しみからは解放されない。理想は、そうした現実を受け入れ、飲まれぬ境地に達することだ。だが、たった一つだけ、例外が存在する。あとは、わかるな?」

 代理人の言葉に対し、少女は臆せず言った。

「それでも私は許せない。救いと称して、人の可能性を摘み取る、あなたの行いを。生きてさえいれば希望はある。変われるかもしれない、という希望が!」

「私もかつてそういうふうに考えていた。だがな、本気で自分が死にたくなったとき、わかったのだ。死を想う人は、愛を感じられず、強固な信念もない。そんな絶望の中、あるかもわからぬ自分の可能性とやらに賭け、何十年も耐え続ける。それこそ、地獄ではないのか?」

 まるで五歳の子供をあやすかのような口調。

 対して、少女は語気をさらに強めた。

「だからといって、あなたに人の命を奪う権利は、ない! 生きたくても生きられない人もいるのよ?」

 脳裏に数々の無念が思い出される。黒猫紳士は奥歯を噛みしめ、握り締めた手を震わせた。

「そうだ」

代理人は少女の言葉に、大きくうなずいた。予想外の反応だったのか、少女が一瞬硬直した。

「人は親によって生まれさせられる。だが、その命は本人のものであるべきだ。故に人の死に方は、家族でも、環境でも、法律でもなく、本人が決めるべきだ。生きたい人は生き、死にたい人は死ねばいい。私はその、手助けをしているに過ぎない」

そのとき、黒猫紳士は見てしまった。まるで初めて出会った生き物でも見るかのように、少女を観察する代理人を。黒猫紳士は思わず声を発した。

「どうした?」

「あまりにも話が通じず、少々驚いたのだ」

 代理人は首をかしげ、公然の事実を確認するかのような口調で言った。

「お前は、本気で死にたいと思ったことはないのか? 無価値感にひしがれ、この世から消えたくなることはないのか? こんなに苦しい気持ちが続くのなら、いっそのこと死んでしまった方が、楽かもしれないと思ったことはないのか?」

 少女は、顔をそむけてしまった。

「──ないらしいな。どうやって死のうか、どうすれば苦しまずに死ねるかなどと、考えるなどということは。では、もしも自分が彼らと同じ立場だったら、どのように考え、感じるか想像してほしい」

代理人は、ビジネススーツを着た、青白い青年と目を合わせた。

「彼は、単身都会にやってきた。吐き気を抑え通勤。会社の上司からは、つらく当たられ、業績は伸びず、いつも深夜までサービス残業。お叱りのメールが怖くて、夜も眠れない。同僚は自分以上に頑張っている。親に心配をかけられない。転職はすでに、五年以内に三回しており、再就職は厳しい」

 次に、ほつれたシャツとズボンを着ている、女性と目を合わせた。化粧の上からでも、目の隈と、体の痣が見て取れる。

「彼女は、仕事と母親の介護で、手いっぱいだ。早朝に起きて、母親の排せつや、食事の世話。掃除、洗濯、身支度などをこなし職場へ。帰宅したら、そこからまた、親の飯と下の世話。母親は、認知症が進み、彼女を自分の娘だと思っていない。毎日暴力を振るい、支離滅裂な言動を、浴びせ続ける。その上、昼夜逆転している始末だ。彼女は休まず、眠らず、世話、世話、世話……」

 代理人は、優しくかたりかけるように、一人一人生い立ちを語った。彼らの目が、それが嘘でないことを物語っていた。

「みな、どうしようもない理由を抱え、立っている。相談できる人はいないか、いても役に立たない。金も時間も自由もない。社会からの期待に、応える力もない。やりたいこともわからない。たとえあったとしても、道を塞がれている。ただ苦しいだけの生。私は彼らを、耐えがたい生の苦しみから、解放したいだけだ」

 少女は口を開き、何かを言おうとしていた。しかし、言葉を発する気配はない。

 黒猫紳士は、彼女を下がらせ、一歩踏み出すと言い放った。

「お前の考えにも一理ある。しかし、私は認められない。理由は三つ」

 人差し指を突き出す。

「一つ目。人には、肉体的にも、精神的にも、絶望的な状況でも、這い上がる力がある。お前の考え方は、患者の治癒力を、信用していないことになる。『じゃあ死のうか』と突き放すのではなく、『じゃあどうしようか』と、手を差し伸べる方が、建設的じゃないのか?」

 次に中指を立てる。

「二つ目、死ぬ権利が合法化したとしよう。そうしたら、ここにいるような人々を、『社会が支える』という視点や、難治性の病の治療技術が、発達しなくなるだろう。社会制度や、医療が後退すれば、逆に自殺者増加を招く、原因になりかねない」

 最後に薬指を立てる。

「三つ目、お前が現れてから、難治患者の人口が大幅に減った。しかも大半が家族介護だ。これが何を意味しているか、わかるか?」

 先ほどの女性が、震える声で言った。

「まさか、介護している人が、遠回しに自殺を進めて……!」

「その可能性は、否定できないだろう。何せ家族介護は密室で行われる。どんな会話があったか、盗聴でもしない限りわからない」

 代理人は、両手を広げゆっくりとこちらへ近づいてきた。そして、静かに一言。

「成長したな、小僧。だが……」

 黒猫紳士は、背筋に悪寒が走るのを感じた。その理由に至る前に、代理人が言った。

「周りを見てみろ」

 動揺している人がいるものの、大方の意志は変わらないようだった。

 当然だろう。たとえ安楽死が、人生における最悪の解決策だったとしても、これまでに試みてきたどの解決策よりも最良であるなら、採用せざるを得ない。

「──これが、私の答えだ」

 社会を破滅させてでも、個人の意思を尊重する。それが、死神代理人の本質。

 黒猫紳士と同じく、自分の信念のためなら、他者を殺めることをいとわない。

「お前は、存在してはいけない」

黒猫紳士は、代理人の胸元に爪を突き立てた。服に当たったとは思えぬ、金属音が路地に響く。勝てない相手に対しての全力の不意打ちは、あっさりと破られた。

腕を引く前に、つかまれた。外そうにもびくともしない。万力の如き力。さらに、もう片手で、メスを振るってきた。上体を倒し、すれすれでかわす。頬に微かな痛み。瞬間、視界がぐらつく。

 ここぞとばかりに、周囲の人も妨害してきた。手足に必死にまとわりつく。

「離れろ! 頼む!」

「終わりだ、若造!」

 代理人がメスをかざす。まだだ、まだ何か手があるはず!

「あきらめないで!」

 少女が代理人のわき腹に突っ込んだ。驚きのあまり、自殺志願者たちの動きが止まる。

「みんな、頼むから……死なないで!」

少女の、心からの叫びが通じたのだろうか。代理人の力が緩み、態勢が崩れた。勝負をかけるなら、今しかない!

「人は、精神的にも、肉体的にも追い詰められようが」

 黒猫紳士は跳躍。上空から代理人に飛びつく。両二の腕を掴み、反撃の芽を潰す。

「再び、立ち上がれるんだよ!」

 マスクとコートの間、首筋に牙をつき立てる。牙は強化繊維を切り裂き、代理人の首に食い込んだ。そのまま空中で体を捻る。体重を利用し、ペストマスクを横転。あとは牙の位置を調整し、もう一度首を噛みこみ、脊髄神経を断てば……。

 

「ねこさま! ねこさま! お願い! 起きて! ねこさま!」

 少女はひたすら叫ぶ。四肢を拘束されながらも、最後の抵抗として、叫ぶ。もはや、打つ手はなかった。

 代理人は、気絶した黒猫紳士を払いのけた。そして、何事もなかったかのように、ゆらりと立ち上がる。患者たちを舐めるように見回すと、首を横に振った。

「正常な判断力を失った状態では、規約違反だ。本日は休診とする」

 代理人を中心に、白煙が発生。少女は、口と鼻をハンカチで押さえ、煙に耐える。ざわめきに混じって、重々しい声が聞えた。

「次はない」

 煙が晴れた時、死の化身は跡形もなく消えていた。

 壮絶な戦いを目にした人々は、ある人は逃げるように、ある人は嘆き、ある人は苦悶の表情で、またある人は何かを決意したかのように、その場を去った。

 少女はただ茫然と、その様子を見ていることしかできなかった。

 最後にビジネススーツの青年だけが残った。青年は下を向いて、ぼそぼそと口を動かした。

「……死ぬのが、怖くなっちまった。何か月もかけて準備してきた。本当なら今頃、生の苦しみから解放されていたはずだった。なのに」

 青年は顔を上げた。

鬼気迫る形相。顔は興奮で真っ赤に染まり、目は血走っている。全身憤怒の塊のようで、耐えきれず、爆発したかのように叫んできた。

「てめえらのせいで! 全部台無しだ! てめえらの勝手な都合で、俺たちを生き地獄に縛りつけた悪魔め! 恨んでやる、怨んでやるぞ! 決心できたら、死に呪ってやる!」

 怖い。泣きたい。けれども少女は、できるだけ誠意を込め、優しい声で言った。

「それで大丈夫よ。あなたはもう、生きていける」

 青年は一瞬無表情になると、泣き喚きながら去っていった。

 ガチガチと音が鳴っていた。少女自身の、歯ぎしりの音だった。全身震えが止まらない。動機がして、呼吸が早くなる。

「病院、行かなきゃ……」

 それでも、少女は立ち上がった。涙と鼻水をハンカチで拭うのも忘れて、黒猫紳士を引きずりはじめた。

 

 病室のベッドの上で、黒猫紳士は目覚めた。ベッド柵に寄りかかるように、少女が寝ている。

 そうか、彼女に助けられたのか。少女の成長は黒猫紳士の想像をはるかに超えているようだった。これだったらもう、自分が守らずとも……。

 何を考えているんだ自分は。黒猫紳士は首を振った。『大切な人は守る』『わがままは叶える』。旅には多大な危険が伴う以上、これが過保護・過干渉であるはずがない。

シーツが擦れる音で、少女が目覚めた。眠そうな表情が、驚愕へと変わった。

「ありがとう、君のおかげ命拾いした。救急隊も、君が呼んだろう?」

 緊張の糸が途切れたためか、延々と泣き続ける少女をあやす。時折こぼれる言葉から、あの後、何が起きたのか察しはついた。少女は、図書館での宣言を実践してみせたのだ。

「私が間違っていた。謝るよ。君は、本当によく頑張った。最低でも一人の命を救ったんだ。彼の怨みも、感謝に変わる日が絶対に来る。それまでの辛抱だ」

「ええ……ありがとう、ねこさま」

 黒猫紳士は少女を撫でながら、語り始めた。

代理人の力は、自分の近くにいる人の自殺願望に比例して強くなる。複数人いる場合の実力は圧倒的。自殺志願者を一か所に集めるのはそういった理由があるのだろう」

 おそらく、メスの効力にも自殺願望が関わっているのだろう。自殺願望が弱い人を斬っても昏倒するだけだが、自殺願望が強い人を斬ると即死する。これなら、黒猫紳士が死ななかったわけや、『休診』の理由を説明できる。

「逆に周囲の人の自殺願望が減れば、代理人の力も落ちる。君が代理人に突撃した時、代理人が弱っただろう? 君の勇気に、周囲の人の心が動かされたからだ」

「勇気に?」

「『やってみせよ。言って聞かせよ。させてみせよ。そしてほめよ。さすれば人は動かん』。昔読んだ本に載っていた言葉だ。人を動かすにはまず、やって見せること」

「じゃあ、私の行いは無駄じゃなかったの?」

 黒猫紳士は、言葉の代わりにハグで答えた。

しばらくして、ようやく落ち着いた少女が呟いた。

「奴を止めるため、他に打てる手はある?」

「現状、彼を止めるすべはない。効率重視で同調性を求める一方、テストで序列を作る教育形態。効率よく金を稼ぐために、労働者に過労働させる企業形態。経費削減のため、心の病に寄り添わず、薬で押さえつける医療形態。この国が経済効率優先である限り、奴が仕事に困ることはない」

「どうしよう……」

 少女のすがるような目。黒猫紳士は、何とか期待に応えようと、寝ぼけた頭をフル回転させる。しかし、名案は思い浮かばなかった。

「私たちにできることは、事実を書くだけだ。より多くの人が、『自殺の手助け』に対して、考えるきっかけを作る」

「でも、それじゃあ、奴の存在が広まっちゃう!」

「この問題は、いずれどの国でも直面する。寿命が延びれば伸びるほど、自殺者が増えるのは必然。私たちが先に具体例を示し、問題提起してしまった方が、抑止に繋がるはずだ。あとは──」

 黒猫紳士は、いったん息を大きく吸って、言った。

旅行記を、『次巻を読まずに死ねるか!』と思わせるくらい、面白いものにすることくらいかな」

 ここまで話して、ようやく少女は、笑みを浮かべた。

「……そうね。旅行記を完成させるためにも、旅を続けましょう」

 黒猫紳士はどうしても、彼を嫌いにはなれなかった。彼は殺戮者。しかし同時に、心から人々の幸福を願っていることも事実。命を狙っても無傷で帰す寛容さに加え、相手の考えをけっして否定しない、度量の広さも併せ持っていた。

 そのとき、黒猫紳士は思い至った。

命の使い道は、本人が決めるべきだ』。逆に言えば、『本人以外が、命の使い道を、決めてはならない』。彼は人殺しでありながら、自らの意志で、人を殺すことができないのだ。

「難儀な奴だ」

 黒猫紳士は、ぼそりと呟いて、再び目を瞑った。

 

時間国家

 乾いた風が吹く、廃墟の山々の狭間。黒い馬に乗った二人が行く。

 騎手はダブルスーツを着こなす、黒猫の紳士。腰のベルトに、黒猫を模した柄の杖を差している。

 その前に座っているのは、黒い長髪の少女。黒いジャケットが風に揺れ、白いシャツが見える。ニーソクスの上で、スカートがヒラヒラと舞っていた。

 大通りに人は一人もいない。街道に埋め込まれたレンガの隙間から、雑草が伸びる。通りの左右に広がっているのは、増築を繰り返したと思わしき、いびつな高層建築たち。外壁が薄汚れていることや、多少の弾痕が刻まれていることを加味しても、壮観だ。

 建築物の窓のほとんどは、ガラスが剥がれ落ちていた。かろうじてへばりついているガラスも、ひび割れた物ばかり。張り巡らされた配管も、折れるか、破れるかしていた。屋根や、壁面から伸びている煙突たちも、さびて赤黒く染まっている。

 この廃墟群に、妙な共通点があった。それは、どの方向から見ても必ず一つは大時計がついていることだった。

 小売店や、カフェ、駅をはじめ、どの建物にも必ず時計がついていた。それも、二つ並んでいたり、幾何学的に配列してあったりと、飾り方もさまざま。

 少女が、感嘆のため息をついて言った。

「よっぽど時間に追われていたのかな?」

「過剰を通り越して異様だな。ただ、もう一つ気になることがある」

「ええ、わたしも感じる」

 視線。常に何者かに見られているような不快感。

黒猫紳士は辺りを見まわす。

 古風な街路灯や、放棄された自動車、ゴミ箱、消火栓、謎の信号機──ありとあらゆる場所に時計がつけられていた。よく見ると道路にも、時計らしき絵が描かれている。

少女が、立体駐車場の跡を指さした。廃車はみな蒸気式だった。

「それにしても、なんでこの都市は滅びたんだろう。こんなに高度な文明を有していたのに」

「とりあえず人を探そう」

 高層建築が並ぶ大通りを進んでいく。大半の建物に、パイプが接続された巨大モニターがついていた。

「広告を映すためのモニターだろう。となると、ここは商業施設群か」

 しばらく進むと、マンションと思わしき建物が増えていった。例外なく高層であり、時計だらけだった。

「ゴミ捨て場にも、いくつか時計が捨ててあったね」

「ああ、それに見てみろ、アレ」

 廃マンション群の狭間に、教会らしき建築物があった。正面には、金の装飾がなされた大時計。教会の柱には、時計をモチーフにした彫刻が刻まれている。壁面には、溶けた時計のモチーフが、大量に描かれていた。

 馬を止めて、内部を視察。祭壇と木製の椅子が並んでいる様子は、一見他国の教会と大差ない。だが、まつられているものが異様だった。

 全体にちりばめられた、無数のボタンやランプ、そして歯車。側面から配線や銅線が滴っている。奇妙な装置の中央に取り付けられているのは、やはり時計。銀の縁取りの丸時計だった。

「祈ったら、何かいいことでもあるかな?」

 少女は身をかがめ、手を組み、目を瞑る。

「わたしたちがこの町を無事抜けられるように」

「ずいぶんと控えめな願いだな」

「これくらいがちょうどいいのよ」

 少女は目を開けると、祭壇の下に手を伸ばした。

「ほら、見て? 祈らなかったら、わからなかった」

 時計のツマミのパーツ。少女はそのままジャケットのポケットにしまった。

 少女の強運に驚きつつ、教会を後にする。馬で疾走しているにも関わらず、一向に街の端が見えない。

 ひと際大きなマンションの前に、地図らしき看板があった。

 黒猫紳士は、地図の下の方を指さした。

「南の商業地区から入って、居住区まで北上してきたらしいな。あの教会、街の中央にあったのか」

「西の工業地区が気になるね」

「行こう」

 教会があった場所まで戻り、西へ馬を走らせる。ただの森林と化した自然公園が、背後へ消えていく。銅の歯車を装飾に使った橋を、数本渡った。

 さらに、街路樹に囲まれた道路を行くと、遠くに時計塔が見えてきた。

「ねぇ、あの時計塔、街で一番高い建物よね」

「私たちを監視するなら、あそこほど適した場所はなかろう」

 検問所らしき建築物に、たどり着いた。灰色の武骨な建物で、巨大な二つの時計が屋根にひっついていた。それぞれ示している時刻が違う。

 検問を潜り抜けると、半透明の膜が張られていた。どうやら、工業地区全体を覆っているらしく、膜の端は見えない。黒猫紳士は試しに、腰に携えた杖を引き抜き、触れてみようとした。しかし、触れなかった。何の感触もない。

 膜の中に入ろうとすれば、簡単に入れそうだった。

 膜の内側には、工場らしきものが見える。気になるのは、劣化具合だった。外とは比較にならないほど、廃墟化が進んでいる。地図を見ていなければ、鉄くずの山としか、認識できなかっただろう。

「金属を腐食させる微小生物か、気体でも充満しているのか?」

「工場だけ他国から攻撃されたとかは?」

「なさそうだ。見た限り、経年劣化だろう。放置されたからもしかしたら、百年近く経っているのかもしれない……む?」

 工場地区を、かなりの速度で動く、何かが見えた。車に近い早さだ。

 少女が目を見開いて、こちらを向いた。

「ねこさま、見えた?」

「見えた」

「なんだった?」

「髪の大半が白髪の、壮年の男だ。茶色のマントを羽織って、背中に大きなリュックを背負っていた」

「見間違いじゃない?」

 時計の見すぎで病んじゃった? とでも言いたげな顔だった。そう思うのも無理はない。車並みの速さで『歩く』などという芸当ができる人は、黒猫紳士も知らない。

 インク馬が三歩ほど後退した。前に座っていた少女が『ひゃ』っと声を上げて、後ろにのけぞる。黒猫紳士は、左手で優しく彼女を支えると、馬の前方へ向けて笑顔を向けた。

 膜越しに、壮年の男が立っていた。男は膜を超えると、口を開いた。

「ようこそ、クロノポリスへ。その様子だと、旅人さんかな? まあ、とぼけたって無駄だがね」

 男は腕時計を弄りながら、笑い声をあげた。笑うにつれて、みるみる若返っていく。

「ねねねねこさま!?」

 驚きのあまり呆然としてしまった。老成に差し掛かっていたはずの男が、四十歳程度の姿に早変わり。

「単純作業は老後の時間を、頭を使う作業は若い時の時間を、使った方がいい。そうだろう?」

 それができれば苦労しない。

「知りたいのは、この国が滅びた理由。違うかな」

「その通りだ」

 黒猫紳士は、あえて視線の話には触れなかった。少女の肩を軽くたたき、警戒するよう合図を送る。

男は得意げに話し始めた。

「誰もが時間を欲した。一日が倍の長さになれば、自由に使える時間が増えて、人はみな幸福になると。だからクロノポリス民は、時間圧縮装置が開発された時、人々は歓喜したよ」

「時間圧縮?」

 少女は早くも眉間にしわを寄せ、首を傾げた。

「時間圧縮装置は起動している間、周囲の時間の進み方を五倍にする。範囲は大体街分くらいだ。一日が五日。一年が五年。あらゆる技術は、爆発的に発展をとげ、高層ビルが立ち並び、車は全て自動化された。まあ当然、デメリットもあった。なんだと思う?」

「時間の流れの差による価値観や、格差の相違が生まれることか? 例えば、時間圧縮空間に一年出張すると五歳年を取る、というふうに」

 男は、こちらに大げさな拍手をしながら、話をつづけた。

「もっと単純なことだよ。圧縮空間の中では五倍速で恋愛が進み、五倍速で子供が生まれる。圧縮空間は土地を節約するため、工場と研究施設しか建てられなかった。必然的に、圧縮空間の外で、子育てをすることになる。故に、人口は爆発的に増加。人が増えたことでまず、土地が足りなくなった」

 そうなると局所的な老朽化は、時間圧縮の影響か。検問の二つの時計も、膜の内と外の時差を、示していたのだろう。

「圧縮空間は、十倍速で資源を消費する。その上、人口爆発によって、国全体で消費する食品や物の量も増えた」

「でも、五倍の速度で、研究開発しているんでしょう?」

「五倍の速度で食糧問題を解決しようにも、そのためには五倍の量の研究費と材料が必要だからね。すでにこの国に、そんな力は残されていなかった」

 なんとなく、このあとの展開は想像がついた。

 少女も察したようで、ぼそりと呟いた。

「ないなら、奪うしか……」

「そうだよ。戦争だよ。相手が十年かけて作る兵器を、一年で作れるんだから、負けるはずがない。周辺国を次々取り込んで、資源を奪っていった。もっとも、戦争で手に入る程度の資源量では、その場しのぎにすらならなかったがね。最終的に、資源枯渇で困っているところを、配下の国がクーデターを起こし滅亡した。町を見てわかる通り、実に平和的革命だったよ。みんな、心の底では思っていたからね。時間だけあっても、幸福にはならないと」

 男は、うんうん、と自分で何度もうなずいた。

「オレは、数少ないおこぼれにあやかるため、毎日こうしてジャンク漁りをしている身だ。……では、これで。いい旅を」

 彼が再び腕時計を操作した、瞬間だった。

 地面に男が伏している。そして、少女が男の腕を踏みつけていた。黒猫紳士は馬から飛び降り、男の左手を背中に回し、手前に引く。ついでに後頭部を足で押さえつけた。これで、もう身動きは取れない。

「まさか、時計のパーツを……!」

 少女は腕時計を奪うと、足で踏み潰した。男は抵抗するのをやめ、おとなしくなった。

 黒猫紳士は、少女の方を向き、疑問を口にした。

「こいつは、何をした?」

「ねこさまの動きを止めて、トランクを奪い取ろうとしたの。だからわたし、そいつを馬の上から突き落として、時計をいじられないように、手を踏みつけてやった」

 男が嫌味ったらしく言った。

「違う、お前の動きを止めたんじゃない。時間を止めたんだ」

「大層な能力だな。準備に時間がかかりそうだ。長話も、能力発動のための時間稼ぎだったりするのかな?」

「ああそうだ。最もお前らが警戒しまくっていたせいで、台無しだったがな。

 吐き捨てるように言うと、男は大きなため息をつく。そして、地面を拳で叩きつけると、叫んだ。

「一体何で、オレがお前らを狙っているとわかったんだ!」

「この街に入ってからずっと、視線を感じていたからな。誰だって警戒する」

 男の顔から、急に赤みが引いていく。体を震わせ、じたばたし始めた。

「待て、それはオレじゃない。まっ、まさか……時計塔の!」

 取り乱した男は、「離せ!」「助けてくれ!」などと叫び暴れはじめた。黒猫紳士はポケットからスカーフを取り出すと、男の口に近づる。しみこんだ薬品を吸い込んだ男は、すぐに寝息を立て始めた。

「この街、早く出た方がよさそうね」

「ああ。ネタ集めはこれで十分だ。これ以上ひどい目に遭わないよう、さっさと逃げよう」

 黒猫紳士は、時計塔と時間加速ドームに背を向け、馬を走らせた。時計だらけの大通りを抜け、街の外に出る。

 瞬間、意識が飛んだ。

 

 巨塔に、鈍く光る無数のパイプが、いばらのように絡み合っている。大時計の文字盤には、植物のツルが、からみついていた。金属の軋む不気味な音が、内側から聞こえてくる。中央には、金具で補強された木製の扉があった。

 時計塔前の広場には、頭蓋がつぶれた白骨が、山積みになっていた。

「また、ここに戻ってきちゃった」

「何度見ても悪趣味だ」

 街の外に出ようとした瞬間、時計塔の前に戻される。いろいろと試行錯誤はしてみたが、無駄だった。

 黒猫紳士は、再びインク馬を走らせようとした。しかし、インク馬は数歩歩いた所で、座り込んだ。広大な街を、何回も横断したのだ。むしろ、ここまで頑張れたことをねぎらうべきだろう。

 黒猫紳士は先に馬から降りると、少女の下馬を手伝った。

「ありがとうね、インク馬さん」

 インク馬は、黒猫紳士たちに対し申し訳なさそうに頷くと、インク瓶へと戻った。

「やれることは全部やった。後は……」

「行くしかなさそうだな」

 舌打ちしながら、さびた扉に手をかけた。扉の留め具が外れ、内側に倒れる。

 黒猫紳士は内装を見た瞬間、硬直してしまった。動いている。歯車はかみ合い、芸術的な駆動恩を奏でている。一点も錆はなく、どの歯車も金、銀、あるいは銅色に輝いていた。

「そんなばかな」

 内部構造に圧倒されながら、螺旋階段を上る。途中、いくつか部屋があったものの、いずれも鍵がかけられて、開かなかった。

 気づいたら、最上部にたどり着いていた。目の前には、重々しい金属製の扉がある。やはり、時計の装飾がついている。時計の針は三本とも高速回転しており、時計としての役割を果たせていない。

「あれ? 百段も登ってないよ? もっとあると思ったのに」

「この時計塔の建っている土地、時間はおろか空間もおかしいらしいな」

 扉を開けると、またしても階段。十段ほど上がると、こじんまりとした個室に出た。位置的には、大時計の上部らしい。

 大きな窓が開いており青空が見える。窓からは人々の喧騒が聞こえてくる。時計塔の外に広がるのは、廃墟だけだというのに。

その窓の淵に、少年が腰かけている。

「やあ!」

 少年は、白いシャツにコルセットをつけ、茶色のジャケットを羽織っている。ズボンのベルトには、いくつもの時計をぶら下げていた。額には望遠ゴーグル。何より眼を惹く、人間離れした美貌。

 黒猫紳士は、直感で悟った。間違いない。彼だ。彼の茶色い瞳が、私たちをずっと監視していたのだ。

 少年は、ほっそりとした腕を広げて、窓の外を見るように促してきた。

黒猫紳士は少女の手を引き、ゆっくりと窓際まで移動。

「見てよ、これ、きれいだろう? 今は最盛期の少し前だね」

 街は蒸気で覆われていた。煙の狭間から、行きかう人々や、乗り物が見える。

「この窓には、時計塔の誕生から、街の荒廃までが、映し出されるんだ。繰り返し、繰り返し……」

 目を真ん丸にしたまま、少女が口を開いた。

「いつからここにいるの?」

「ずっと昔。ここにきてから、一年数えて止めた。それ以降はわからない」

「出られないの?」

「抜け出す方法は、まあ、ご察しの通りさ」

 と、少年は窓の外に手を伸ばすと、細く、繊細な人差し指を下へ向けた。

 少年は黒猫紳士たちに、妖艶な笑みを向けた。

「まあ、ここにいるのはそんなに悪くない。この町ができた当初から、現在まで、何度も繰り返し見てきた。でも、何度見ても、新しい発見があって飽きないんだ。あと数年待てば、君たちがこの町にやってきた様子も観測できるはず。楽しみだなぁ……」

 濡れた唇から声がこぼれ、部屋を満たす。その音には、異様な響きが混ざっていた。

察知した黒猫紳士は、少女を窓から引きはがし、自身の背後に押しやった。

「ぼくがここで、窓を観測している限り、クロノポリスはここに在り続ける。たとえ、外がただの荒野でもね」

「あなたは、この町に生きた全ての人々の思いを、背負っているのね」

 少女の声には哀れみが混じっていた。少年はゆっくりと首を縦に振る。

「でもね、少し寂しいんだ。ずっと一人だからね。だからさ、君たちも一緒にこの町の様子を見てようよ。ずっと……ずっと……」

 手を広げて、ゆっくりと迫る少年。黒猫紳士たちは、出口へ向けて後ずさる。

「残念だが、私たちは旅を続けなければならない。見聞きしたことを、旅行記にしたためるために」

「長居はできないの。ごめんなさい」

「いいよ、気にしなくて」

 黒猫紳士は少女の手を引き、階段を下り、扉を開けた。しかし、一瞬眼前がぐらついた。首を振ってから前を見る。窓の淵には、少年が腰かけていた。

「な……っ」

 再び、階段を駆け下りる。やはり、少年がいる部屋へ戻ってきてしまった。

「だから言ったでしょ? 気にしなくていいって。もう、君らも出られない。ささ、一緒に街を眺めようか」

「何か手はあるはずだ」

 肉球が汗でヌルヌルする。窓から漏れる人々の声が、集中力をかき乱す。何か、何か手は? ちらりと少女の顔を確認。真っ青で目の焦点が合ってない。今にも叫びたい、と言った様子だった。彼女にとって、この怪奇現象は、殺人現場よりも恐ろしいらしかった。

「ないよ。ぼくが許可せず、ここから生きて出られた旅人さんは、一人たりともいない」

 少女は、今にも泣きだしそうな顔で、時計のツマミを取り出した。胸に抱き、祈り始める。

 すると、少年の目の色が変わった。

「それは……そうか、そういうことか」

 黒猫紳士は、微かな変化を見逃さなかった。

「帰り道を教えてくれ」

「いやだね」

 少年は、露骨な嘲笑を浮かべる。黒猫紳士は挑発に乗らず、冷ややかな視線を送った。

「君は賢いね」

「感情に身を任せて、露骨な誘導を見落とす程、私は馬鹿じゃない」

 突き落とせば倒せる。そんな、単純なことがあるわけがない。一介の泥棒ですら、時を止めたのだから。

 黒猫紳士は考える。交渉して何とか丸く収められないものか。

「もし、この少女より相性がいい友達を見つける手段があるとしたら、知りたくないか? おまけにこの街の知名度も上げられる、そんな方法がもしあるなら……」

 少年の姿勢が、少し前のめりになった。

 黒猫紳士は、自信ありげに微笑を浮かべる。

「私たちはトラベルライターだ。この町を出たら、君のことを書いた、本を出版するつもりだ。そうなれば、この町は書籍を介し、多くの人々の記憶の中に在り続ける。それだけじゃない。興味を持った人がここへ、旅行しに来るかもしれない。その中には、この窓から身投げせず、君と一緒に居てくれる人もいるかもしれない」

 少年の美顔が、ほんの少し揺れた。黒猫紳士はここぞとばかりに、追い打ちする。

「あと、もし逃してくれるのであれば、このトランプ一式と、ポケットサイズ一人遊び大百科をプレゼントしよう!」

 黒猫紳士はトランプを、右手から左手へシャラシャラと飛ばした。いかにも愉快そうな表情を浮かべながら。

 少年は、空に手を伸ばし、何かを摘まむようなしぐさをした。すると、カードが一枚出現。柄はジョーカー。少年と同じく、にやりと笑っている。

「へぇ、面白い提案だね、君。うん、ずいぶんと質のいいトランプだ。気に入ったよ。そのアイデアも。ただ、本当に売れる本を書ける実力があるかどうか、示してほしい」

 黒猫紳士と少女は、インク馬や、旅館について語った。旅の途中でとった、メモやノートも彼に見せた。もちろん、書き途中の原稿も。

 少年は一通り見終わると、満足げに二度、手を叩いた。

「君の熱意はよくわかった。ぼくの思い以外に、たくさんのことを背負って旅をしているんだね。いつか、僕のことが書かれた、本を持った旅人さんが来ることを、楽しみにしているよ」

 少年が手にしたトランプが、黒猫紳士の物であったと気づいたのは、それから数秒後のことだった。

「目を瞑ったまま、階段を降りるんだ。それだけでいい。街から出るときも、おんなじさ」

 黒猫紳士は深々と礼をすると、少年に背を向けた。少女も、黒猫紳士と共に歩き出そうとしたが、足を止め振り向く。

「来た旅人さんを閉じ込めるのではなく、伝聞させた方がいいんじゃないかしら」

 少女はそう言いながら、少年に手を差し出した。手のひらの上には時計のツマミ。少年は少し驚いた様子で微笑むと、少女の指先を軽く撫でた。そして、少し名残惜しそうに、手を引いた。

「そのパーツは君に上げるよ、記念にね。あと最後に一言お礼を言わせておくれ」

「お礼?」

「あの教会で、僕に、祈ってくれて、ありがとう」

 二人は、少年に手を振ると、目を瞑って階段を降りた。

生物兵器

 黒猫紳士の脳内に、依頼者である町長の言葉が反復される。

『宗教過激派組織が、最新鋭の兵器を輸入した情報を入手しました。本隊が施設を制圧した後、起動前に処理していただきたい。起動されたら、この町はおそらく……』

 今まで訪れた場所の中でも、特に心温まるお国柄。報酬も魅力的。協力したいのは山々だが危険すぎる。そもそも、政治や宗教関連の事件に首を突っ込むのは、旅行作家としてどうなのか。

 黒猫紳士はもちろん断ろうとした。しかし、自分の命より他者の人命を優先する彼女が、断るはずもない。

 

 その結末がこれだった。

扉の先に広がっていたのは、撃たれ散った兵士と研究者たち。それを彩る電子機器の残骸の山。

 最奥にいたのは、檻の中に閉じこもる白髪ショートの娘だった。半袖短パンといった年相応の服装だが、腰のベルトには銃器が収納できるホルダーがついていた。使い込まれたクマのぬいぐるみに頭を埋めている。

「馬鹿な、これを一人で?」

「嘘……」

 黒猫紳士はどうみても、これが兵器だとは思えなかった。連れの少女も、困惑している様子だ。

 構えを解き、杖を腰のベルトに刺し戻す。

「大丈夫、あなた! 今、外に出してあげるね。ねこさま!」

 先ほどまでの憂鬱さが嘘のように少女が言った。

 自身の痛みを差し置いて、弱きものに尽くす。黒猫紳士は、称賛と羨望と驚愕と苛立ちを同時に感じた。息を吸い、深く吐き、自分に問いかける。今、何をすべきか。

 黒猫紳士はかがんで、娘と目線を合わせた。

「私たちは、君を場所から助け出そうと思っている。いいかな? もしよろしければ名前を教えてほしい」

 娘は顔を上げた。丸みを帯びたあどけない顔だったが、気力が感じられない。

「ハカナ。わたし、ハカナ」

 娘がうなずいたのを確認し、お姫様抱っこした。少女の視線が痛かったが状況が状況だ。

 施設を出てテントの群れ、即ち前線基地まで帰還した。

 

 ハカナは、机に山盛りにされたパンを、一心不乱にかじっていた。よほど、お腹がすいていたのだろう。見た目からは想像がつかないほどの、豪快さを秘めていた。

 依頼主である町長の手から、食べかけのパンが滑り落ちた。

「これが……兵器!?」

 少女が依頼者をにらみつけた。依頼者は、はっとした様子で咳払いするとこう提案した。

「街の西にある、テロリスト被害者の会に相談してみたらいかがでしょう。行政と連携し、孤児院への手配なんかもやっていたはずです」

 

 早速、こじんまりした木造建物の受付へ。彼女が保護を受けられないかどうか、受付の男性に相談。

「名前も、親も、住所も、戸籍も、わからないのではこちらではどうしようもありません」

「そんな! この子は帰る場所もないのに」

 今にもとびかからんばかりの勢いの少女。黒猫紳士は手をかざし制止した。

「研究所の資料が本当なら、この国には彼女を止められる人も組織も存在しない。一人の被害者のために、施設全員の命を犠牲にするリスクを背負わせるのはあまりにも酷だ」

「ええ。あなたの言う通りです。あんまりだ。あまりにもあんまりすぎる。改めて、我々の無力さを痛感させられました。受け入れはできませんが、できる限りの支援はいたしましょう」

 ハカナの表情が少し明るくなった。その様子を見て、少女も落ち着きを取り戻したようだった。

 

 黒猫紳士たちは、町から少し離れた宿を手配した。

 高い金額を払っただけあり、快適そうな部屋だった。キッチン、トイレもあるし、公衆浴場も近い。早起きすれば、テラスで日の出を見ながら、のんびりと朝食を食べることもできるだろう。難点は、山が近いせいでハネアリとカメムシがしょっちゅう侵入してくること程度か。

「さあ、ここが今日から君のお家だ」

 ハカナは家の中をパタパタと駆けまわると、ソファの上に横になった。少女もついていき、楽しそうに話し始めた。

 黒猫紳士は、例の施設で見つけた手記を開く。

『殺しのための道具を、普通の女の子として扱うなんて偽善だとわかっている。でも、たとえ体の半分以上が人工物で造られていたとしても、心は思春期の女の子そのものだ。大義のために命を散らせ、などと命令できるはずがない。私は彼女の主として、勤めを果たす。あの国の平和ボケ具合には吐き気がする。しかし、我々よりはマシだということが分かった』

 手記から顔を上げた。少女とハカナは、お絵かきして遊んでいる。ハカナの絵はどうやら、集合写真の様子を描いたものらしかった。

 中央にハカナ。背後にはたくさんの友達。右隣に赤髪の女の子。左隣には、この手記の持ち主によく似た人物が描かれていた。持ち主の顔色は、黒猫紳士が実際に見た時よりも、大分いい。

「銃を携えていなければ、子供らしい絵なんだがな……」

 

 夕方、ドアをノックする音がした。扉を開けると野菜の山。

「もしよければ、みんなで食べてください。活躍と事情は、新聞で拝見しました」

 山の後ろからひょっこりと、おばさんの顔が現れた。

「ありがとうございます」

 黒猫紳士は、栄養食と保存食しか作れないため、料理は少女に全部任せた。手記の分析をしていると、少女とハカナの笑い声が聞こえてくる。

 しばらくして、おばさんの温かさは野菜鍋へと姿を変えた。

「ハカナちゃん、食べて」

「でも働いてない」

 ハカナは、クマのぬいぐるみを抱き寄せ、首を振った。

「料理を手伝ったろう、その報酬だ」

「でも……」

「ハカナちゃん、冷めちゃうよ」

 ハカナは『役に立っていない』ことを理由に、首を振り続けた。しかし、そんなことでめげる黒猫紳士と少女ではない。情で攻める少女と、論理で攻める黒猫紳士。旅の途中、数多の値引き交渉をしてきた二人に、この程度の説得は朝飯前だった。

「んぐ」

 ハカナの最初の一口、白菜を食べた時のリアクションが印象的だった。何回か噛んだ後、目を大きく見開き、動きを止めた。そして、唐突に立ち上がり、少女に拍手を送ったのである。

「おいし! おいし!」

「そんなに褒められちゃうと、照れちゃう」

「今まで食べられなかった分、たくさん食べろよ」

「ねこさまは、料理してないくせに」

 笑いながら三人で鍋をつついていると、不意にハカナが言った。

「みんなにも食べてほしいな」

 目を瞑って微笑むハカナに、少女が聞いた。

「みんなって?」

「ベニちゃんとか、あの人とか。一緒だった、仲間」

 あの絵といい、この子に必要なのは戦いではなく、人とのつながりなのではないか。

 

 黒猫紳士は、とにかくハカナを、戦いや争いから徹底的に遠ざけることを決めた。代わりに、彼女が人と接する機会を増やすことにした。暴走されたら、始末するほかないからだった。

 毎日の日課である少女への武術の指導を休止。朝の素振りの時間も筋トレに変更。

 その成果もあってか、ハカナは徐々に人間性を取り戻していった。少女の精神も、ハカナと触れ合うことで回復しているようだった。

 とにかく時間がない。一か月が限度。それまでに決着をつけなければ。

 

 三日目。

少女とハカナの二人で買い物へ行くことを提案した。黒猫紳士はもちろん、二人に気付かれないように追跡。路地裏から駄菓子屋の様子をうかがう。

 ハカナは、化け物じみた身体能力に加え各種戦闘技能も習得している。その上、徹甲弾で毒でも撃ち込まれない限り、どんなに傷ついても戦闘続行可能。人の護衛程度なら、たやすくやってのけるだろう。

少女も護身くらいは楽々こなせる。街は昼夜問わず兵士が警備しており、不安要素はほぼない。昨晩、見回りは一通り済ませている。とはいえ、何が起こるかわからない。心配だ。

 二人は、目の前に広がるお菓子たちを前に、信じられないといった様子だった。顔を紅潮させながら、さまざまなお菓子を手に取っていく。瓶に入った串菓子、飴、グミ、ヨーグルト、飲み物、揚げ菓子……。

「ハカナはともかく、あの子もああいう表情をするとはな」

 駄菓子屋の会計所に、二人が立っていた。ハカナは片手で、お菓子が山盛りになった袋を持っている。

 店員はハカナを見るなり硬直した。顔が引きつり、目の焦点がぶれている。

「これ、ください」

 ハカナは袋を差し出した後、お金を数えて渡した。一連の動作を終える頃には、店員の表情も緩んでいた。

「ちょうどだね、はい。どうぞ」

 少女が隣で、ふぅと息を吐いていた。こちらも一安心だった。

「お嬢ちゃん、その人形かわいいね」

 ハカナは誇らしげに答えた。

「私の、宝もの! 親友から、もらった。想い、詰まってる。離れていても、一緒!」

 

 黒猫紳士は素知らぬ顔で、帰宅した少女と娘を出迎える。

「お菓子、買えた!」

 買い物かごを持ったハカナを見て、思わず頬が緩んだ。

「よくやったぞ、ハカナ。君も付き添いありがとう」

 ハカナは嬉しそうにジャンプしてから、少女の手を握った。

「うん! この子の、お陰」

「わたしは見ていただけ。あなたの力よ!」 

 黒猫紳士は、二人と交互に視線を合わせ、ゆっくりうなずいた。

「二人とも、無事でよかった」

 

 少女とハカナは、テーブルの上にトランプを広げていた。クロンダイクと呼ばれる一人遊びゲームだった。ハカナの表情は真剣そのもの。視線は鋭く、口角は微かに吊り上がっている。一方少女は目を白黒させており、まるでわけがわからないといった所だった。

 黒猫紳士はペンをくるくる回しながら、様子を眺めていた。カードをめくっては唸る二人。

 二人を見ていると、だんだんと視界がぼやけてきた。瞼が重くなり、どこからか、声が聞えてくる。毎日、頭蓋を通して聞いている声。

 

『すべては、君を旅へといざなった私の責任だ』

『君の夢を、願いを、わがままを、もっとかなえてあげたかったのに!』

愛する人を、死から遠ざける術を学ぶには……紳士になるしかない』

 

 後頭を床にぶつけた。受け身は取ったものの、何が起きたか一瞬わからなかった。

「ねこさま、どうしたの!?」

「はわ、はわわわわ!?」

 笑いを必死にこらえている二人を見て悟った。どうやら、椅子から転げ落ちたらしい。

「痛ッ……最近、夜中に原稿書いてるせいで寝不足でな。昨日も八時間しか寝られなかった」

 少女が自信ありげに言い放った。

「猫の睡眠時間は、二十時間だもんね」

「いや、それは子猫」

「じゃあ四時間」

「それは、熟睡している時間」

「人の三倍!」

「じゃあ私はいつ起きているんだ!」

「ええっ、と」

「十四時間前後」

 反射的にハカナの方を向く。少女も大げさにのけぞりつつ、ハカナを見た。

「えへへ、へ」

 当てた本人は手で顔を覆い、照れ笑いしていた。

 

 五日目。

 昨晩、見回りの時に感じた、誰かに見られているような不快感が、いまだに抜けない。その感覚が本物なのか、偽物なのかはわからない。睡眠障害を再発し、五日ぶっ通しで熟睡できておらず、自分の感覚に自信が持てないからだった。

 筋トレ、毛づくろい式瞑想法、不安や心配の書き出し、自己受容日記、入浴、ストレス分析……自分が知り得るあらゆる不安解消法を試したが、一向によくならない。

「このままではいけない……」

 マタタビ込めた煙管を吸いつつ、カフェインレスコーヒー飲む。ふぅ、と息をついた所で、少女が駆け寄ってきた。手には算術の問題集。

 今朝から、教科書を使い勉強も始めた。先日、心優しい匿名の方から送られてきたものだ。ちょうど、買うかどうか検討していたところだったので、ありがたい。

「ねこさま、見て! ハカナちゃん、また満点だったの。すごい!」

 少女の背後から、照れくさそうに、ハカナが姿を見せた。黒猫紳士はカップと煙管を置き、かがんで二人の視線に合わせた。

「ハカナ、やってみて、どうだった?」

「難しかった。でも、平気。先生が、教え上手だから」

 そんな、と少女の顔も赤くなった。

「二人とも頑張ったんだな。問題を解く時間も早くなっている。私は嬉しい」

 素養は悪くないようで、じきに学力も追いつくだろう。……時間がないのが惜しい。

 

 レストランで昼食を済ませた後、少女とハカナをインク馬に乗せた。黒猫紳士は借馬で同行。街を疾走する馬二頭。街路を歩く人々の中には、手を振る人もいた。

 少女は、インク馬を完全に乗りこなしていた。洞窟でインク馬への不満を垂れていた人と、同一人物とは思えない。

 インク馬を繰り、手綱を握る少女。その腰に、ハカナが抱き着き、不安げな視線を送っている。

「怖くないよ。インク馬さんは、とっても安全で、心強いんだから」

「彼女も、最初は怖くて震えていたが、今はこの通りだ」

「えっ……本当に!?」

「ちょっと、ねこさま!」

「にゃはは、事実だろう」

 強化骨格と、人工筋肉で強化された彼女の体は、落馬程度では傷ひとつつかない。しかし、ハカナはそのことを忘れるほどに、乗馬に夢中になっている。

 もう少しだ、もう少し。あと数日で社会復帰できるはず。そうなればハカナ、君はもっと幸せになれる。

 周囲の人々も彼女の変化に気づいたらしく、街のいたるところで気にかけられるようになった。

 

「にゃぁ?」

 深夜、家の側で掃除していた時、またしても何者かの視線を感じた。その後、どんなに家の周囲を捜索しても不審者は見受けられなかった。小川の眺めながら、家へ向かって歩いていると、警備隊の男から声をかけられた。

「毎晩ずっと警備している上、昼間は少女たちの相手をしていると聞いているのですが、本当ですか?」

「ああ、報告している通りだ」

「……少し、休んだ方がいいのでは? 街の警備は、我々が責任を持って担っています。あなた一人で、全てを背負い込まなくていい。私たちは、あなたの仲間です。ぜひ、頼ってください」

 よほど、心配だったのだろう。男は、涙声で何度も念を押すと、去っていった。

 もし、他人が今の自分と同じ立場に立っていたら、彼と同じことをアドバイスするだろう。おそらく、それが正解であり自分のすべきことだと黒猫紳士はわかっていた。しかし、頭ではわかっていても、心の奥底から無限に湧き出る不安の波が、それを許さないのだ。

 

 七日目。

 寄せては引く波に、夕日の色が混じる。青と赤のコントラストが、目に焼きつく。

 ハカナはクマのぬいぐるみと斜陽を、交互に見つめる。白い髪が夕日に照らされ、橙に輝いていた。

「ベニちゃん、赤い髪だった……」

「友達なの?」

「このぬいぐるみを、くれた。あなたたちとも、あわせてあげたい。仲間思いで、頼れる。一番の、親友」

「あなたの親友なら、とても優しい子なんでしょうね」

「うん」

 ハカナは遠くを見つめて、独り言のように、呟いた。

「戦っていた頃。辛くて、大変だった。でも、楽しかった。みんなと、一緒だったから。頑張れば、ほめてくれる。仕事が終わったら、おしゃべりできる。外へ出る自由は、なかった。けど、幸せだった」

「大切な思い出ね」

 少女は夕日を見つめながら、ハカナの肩に手を添えた。ハカナはその手に、自らの手を重ねた。

「今も、大切」

 昼の青は消え、海が黄昏に染まっていく。どんなに止まってくれとせがんでも、時計の針は止められない。残された時間は、少ない。

 

 その夜。

「起きろ!」

「何? 敵襲!?」

「逃げられた」

「嘘!」

 黒猫紳士は、寝台にあった置手紙を少女に突き付けた。

『わるいひと、やっつけます』

 

 ベッドに残った匂いをたどる。方角を定め、インク馬で全力疾走。街の東側から山へ向かった。寝不足でさえなければ、たやすくハカナが起きた音に気付けたはず。トラウマに振り回された結果、より状況を悪化させてしまった。

 前に座る少女が、自身の前髪を払いながら言った。

「わたし、なんとなくわかる気がする。ハカナちゃんが出て行った理由」

「聞かせてくれ」

 黒猫紳士は、軽蔑の言葉を覚悟した。しかし、少女の口調は穏やかだった。

「彼女はきっと、生物兵器として生まれ変わってから、ずっと戦いの技術を磨いてきた。戦えば戦うほど、周りからほめられた。そんな彼女が、真っ先に思いつく、わたしたちへの恩返しは……」

「戦うこと、か。きっと彼女は、自分が戦えば、私たちが喜んでくれるだろうと思った。だから、子供が親にプレゼントをあげようとして、通学路で寄り道するような感覚で、出撃した」

 ここまで話して、黒猫紳士は思い至った。夜感じた視線の正体に。胸が締め付けられ、悔しさで顔が歪む。ハカナであれば自分に気付かれないよう尾行するなど朝飯前。そんなことにも思い至らないとは、視野が狭すぎる。

 失敗だ、大失敗だ。

失う怖さから生じた過保護、過干渉、それに付随する過労による自滅。これでは──

「紳士……失格……」

「ねこさま?」

 少女の言葉で自己嫌悪のループが途切れた。首を左右に振り、前を向く。起きてしまったことは仕方ない。反省会は後だ。とにかく、今は目の前に一点集中しなければ。

「寝起きのせいで、めまいがしただけだ」

 

 山の中腹で道を外れた。馬から降り、獣道をしばらく行く。やがてハカナの匂いに、硝煙が混じってきた。

 爆発音や悲鳴。

 山腹に隠されていたはずの建造物が、赤々と燃え上がっていた。

 燃え上がる建物の前に、ハカナが立っていた。片手にクマのぬいぐるみ、もう片手には片手持ちの銃。

「あっ……」

 ハカナが何かを言った瞬間。見えない力に背中を強く押されたかのように、ガクンと傾く。そのままゆっくりと前のめりに倒れた。

 ハカナの背後から、赤髪の推定十四才ほどの少女が姿を現した。凛々しい顔、差すような目つき。右手に持つ長柄の銃の口からは、硝煙が立ち上っている。

 煤で汚れた袖なしシャツ。年相応の短パン。右足は煤でも被ったのか、黒く変色している。腰に巻いたベルトには、複数の銃器とマガジン、手りゅう弾などがセットされていた。この分だとバックパックの中身も、兵器の類だろう。

「ごめんね、ハカナちゃん。ぬいぐるみ、大切にしてくれてありがとう」

 赤毛の少女はライフルを捨てると人形を拾い、左わきに抱いた。目から、緋色に照らされた涙がとめどなくあふれている。

「アタシの名前は、ベニ。ハカナの親友。よろしく」

 黒猫紳士は、常人にはとらえることのできない速度で杖を抜き、横に振る。杖は銃弾を弾き、カカカンッと、乾いた音を響かせた。見事な早打ち。銃を抜く仕草が視認できなかった。

「私は、ハカナの友達だ。よろしく」

 ベニは、黒猫紳士が無事だと、確認するやいなや、銃を連射しながら、岩陰に隠れた。

 少女がその隙に、黒猫紳士の脇をすり抜け、ハカナをめがけて、視界の外へ消えた。

 黒猫紳士は焦ることなく、ゆっくりと、ベニへ近づく。

「君はなぜ泣く?」

「友達が死んだもの、泣くに決まってんじゃん」

「なぜ殺した」

「任務だもの。ここを見た者、侵した者を、生かしておけない」

「任務を与えたものはどこだ」

 ベニは答えなかった。変わりに、岩陰から飛び出し、二発撃ち放った。

 黒猫紳士は軽く体を逸らし、弾を回避。歩を進める。

「死者の言葉に従う意味はあるのか?」

「わからない」

「降伏してくれ。でなければ、君を殺さねばならない」

「それは無理」

 ベニは、黒く変色した足の皮膚を一気にめくった。現れたのは筋肉ではなく、鎧のような金属板。

 強化骨格。手記では読んだが、実際に見たのは初めてだった。

 これをどう突破すればいい。生憎、例のペストマスクのような強力な毒薬も、徹甲弾も、持ち合わせていない。周囲に転がっていた銃器もベニによって、全て破壊されている。

「普通の女の子じゃないアタシたちは、敵を倒すことでしか、必要とされないの。だから……アタシの敵として、消えろ」

 ベニは接近しながら銃を乱射。黒猫紳士はその場で全て弾を弾き飛ばした。

 猫の動体視力は、人間を遥かに上回る。可聴域も倍。加えて、髭で空気の振動や、微妙な平衡感覚を感じ取れる。人間よりは簡単に、先の先を読むことができる。幸か不幸か、熟睡したおかげで体力は回復していた。

「その上で、なお互角とはな!」

 足払いは前足を上げることで避け、飛び回し蹴りを背腕で受ける。

 銃弾を弾きながら前進。袈裟斬りを試みる。肩に当たるも効果なし。皮下の緩衝材がクッションとなり、衝撃が吸収されてしまっている。

気にせず追撃。撃ち、払い、突く。連続して攻撃を当てたものの、やはり決定打にはならない。呼吸が次第に大きくなり、息切れし始める。

逆にベニは、黒猫紳士の動きに慣れ始めたのか、攻撃の精度がどんどん上がっていく。息はいっさい乱れていない。血液や、肺も、弄っているらしかった。

ベニの技は、一撃一撃が必殺の威力。このままではいずれ、体力切れで負ける。

 これ以上は無理だ。黒猫紳士は、杖を持つ手に力を込めた。目を細めてこちらを見るベニを、明確な殺意でもって睨みつける。

「ただの人で、ここまでやるなんて、あんた何者?」

「黒猫紳士だ!」

「嘘!? じゃあ、まさかその杖!?」

 ぎこちなく後退したベニ。対して黒猫紳士は、一瞬で間合いを詰めた。

 左足へ向けて杖を振る。ベニは動揺しながらも、驚くべき速さで反応した。杖はベニの足先を掠っただけだった。

「えっ……」

 足先が消失。ベニの態勢が崩れる。右手を掴み、関節を外す。左肩に杖を突き刺し、腕の動きも封じた。

「貴様は私の、最も大切なものを奪うと言った。ならば私は、持ちうる全てを賭して、貴様を殲滅する!」

 黒猫紳士は、杖を振りかざし、流れるように斬り──。

「ねこさま、だめっ!」

 突如、少女が割って入った。戦いに集中するあまり、まったく気づかなかった。

「手足の自由は奪った。これ以上は、ただの処刑だわ」

「ハカナはどうした!?」

「死んだ人を悼む暇があるなら、生きている人を救う方が、百倍大事よ!」

 少女の背後。ベニの左手から、クマのぬいぐるみが抜け落ちる。代わりに、何かが服の袖からスルリと降りた。

 黒猫紳士は、とっさに少女を突き飛ばしていた。そのあと何が起こるのか、直感で分かったのかもしれなかった。

 世界が白に包まれる。黒猫紳士が知る中で、この現象を引き起こす道具は一つ。閃光弾だ。

 間もなく、右肩、右腹、左大腿、から力が抜けた。糸が切れるかのような、唐突な脱力。撃たれた。

「ヴアアアァァァ!!」

 黒猫紳士は、見えない目を見開いたまま杖を突きだした。勘だった。幾戦もの身体記憶に裏付けされる、無意識の一撃。杖越しに鉄の感触。外した。まずい!

 そして、地面に突っ伏した。

 次第に目が慣れてくる。脇でベニが見下ろしていた。ふらふらだが歩行に問題はない。右手の関節も、いつの間にか戻っている。

 ベニは、弾き飛ばされた銃をゆっくりと拾い上げた。銃口をこちらへ向ける。しかし、引き金は引けなかった。少女がベニの左足を払ったからだ。

 銃が落ち、回転しながら地面を滑る。ベニは、膝をつき苦しそうに左肩を押さえた。

「ねこさま、こんなことになってしまって、ごめんなさい。あとは、わたしがどうにかするから見てて」

 少女は、銃を蹴りベニから遠ざけると、手を差し伸べた。

「わたしたちと一緒に、やり直そうよ。新しい場所で、新しい仲間を作って、新しい思い出、作りましょう? 戦いなんかしなくても、あなたのこと、褒めるから。認めるから。よりそうから。必要とするから。あなたの居場所になるから! だからお願い、手を取って!」

「仕事の休みの日、みんなで一緒におしゃべりしたり、買ったもので遊んだり、一緒においしいものを、食べたりした。訓練はつらかったけど、みんなや、ハカナと一緒だったから、耐えられた。花を摘みに行ったり、街を自由に駆け回ったりはできないけど! 人殺しでしか、他人の役に立てないけど! それでもあたしたちは、幸せなんだっ!」

 ベニはベルトからナイフを抜き、少女に突き付けた。

「あなたを殺せば、また明日から幸せな日常が返ってくる。だから、お願い。アタシのために死んで!」

 黒猫紳士は、すさまじい速度で思考する。

あの子は過去に、機械兵器や自殺志願者たちを説得してみせた。ベニを説得できる可能性はないとは言いきれない。

……何を考えている。私はもう、愛する人を失いたくない! やろう。すでに目は回復した。最低限、体も動く。杖に殺意を込める。これを投げれば、すべてが終わる。あの子からは恨まれるだろうが、それでもいい。あの子が生きている方が、その百倍大切なのだから。

ダメだ。それでは今までと何一つも変わらない。ハカナの悲劇を、また繰り返すつもりか! あの子を信じなければ。愛する人を信じずに何を信じる?

少女は、ベニのナイフをまったく恐れず歩きだす。

「あきらめて。そうしないとわたしは、あなたを倒さなければならなくなるの。でも、あなたが死んだら、わたしは悲しい」

「なんで?」

「わたしは、あなたが悪い人には見えない。すっごく苦しんでる。同世代の、普通の女の子にしか見えない。それに……それに!」

 少女はクマのぬいぐるみを拾い、抱きしめると叫んだ。

「ハカナちゃんの遺言だから!」

 一瞬、ベニの体が震えた。微かだったが確実に揺れた。

「わたし、知ってるわ。もともと、機械に頼らなければ生きられないことも。メンテナンスなしでは一か月も生きられないことも。そして何よりも、大切な人との絆を尊重することも! それでも、わたしはもう、あなたに戦ってほしくない。友達と袂を分かつことが辛いのもわかる。でもね、一番大切なのは、あなた自身の人生なの。だから! たのむから! おねがいだから! 自分をあきらめないで……わたしの手を握って!」

「でも、でもでもでも! あたしは、あんたの友達を殺したんだよ? 大切な人を撃ったんだよ? あんたを殺そうとしたんだよ? なんで、そんな奴に、手を差し伸べられるの?」

 そうだ、今更変われるわけがない。仲間たちの行いが間違いだったと、受け入れる決断など、奴にできはしない。幼少のころから十年以上抱き続け、大切に磨いてきた信念を、たった数分で捨てるなどできはしない。

「何をしても過去は変えられない。ならわたしは、この現状を受け入れて、最善を尽くすだけ。目の前に広がる惨状も、過去も、あなたが変われない証明にはならない」

 殺意を手に込め、言おうとした。

『消えろ、鉄くず!』

 しかし、発することはできなかった。どんなに力を込めても、手は動かなかった。

 黒猫紳士は今、変わろうとしているのだ。ベニと同じように、昨日まで行いを反省し、古き信念と決別し、新たな道を歩もうとしているのだ。ベニの変化を信じなければ、自分の可能性も、少女の想いも、何もかも全て否定することになる。

 黒猫紳士は杖から手を離した。

「だからお願い。ハカナちゃんがそうしたように、ベニちゃんも手を伸ばして!」

 ベニはふぅ、とため息をついて、黒猫紳士を見た。その表情は、ひどく穏やかだった。

「あなたの主様は、ずいぶんと甘いんだね」

 黒猫紳士は思わず、顔を逸らした。奥歯をかみしめ嗚咽を飲み込む。胃が締め付けられ、胸に鈍痛が走る。

 少女は首を横に振る。

「わたしの主はわたし。わたしの人生は、わたしが決めるわ」

「そう、じゃあ、あんた甘すぎ。甘すぎて、あたし、もうお腹いっぱい」

 ベニはナイフを捨て、ベルトを外し、少女の手を取った。

「ベルトの小物入れの中に、注射器が入ってる。それをハカナの腕に刺して」

 少女はベニの指示のもと、ハカナの筋に液体を注入。びくっと、ハカナの全身が痙攣、胸が上下し始めた。

 黒猫紳士は、首を動かしてベニの方を向いた。

「解毒剤!? まさか、ハカナは撃たれて死んだわけではなかったのか!」

「まさか、銃の一発や二発じゃ死にゃしないよ。強毒を撃った方が早い。それでも、完全に死ぬまでには時間がかかるけどね」

 ハカナはあっさりと目を覚ました。周囲を見渡した後、ベニに呟く。

「べにちゃん……わたし、あの人を……」

「いいの、もう済んだことだから」

 ベニは、ハカナの肩を力強くつかんだ。

「あの猫を背負って、この子と一緒に逃げて。いい?」

「ベニちゃんは?」

「ハカナたちが、平和に街で暮らせるよう、準備があるの」

 ハカナは、ベニをぎゅっと抱きしめる。ベニも、ハカナの背中に手を回す。

「わかった。気を付けてね」

「……ん」

 ベニは、ハカナの背中を撫でながら少女の方を向いた。

「この子、あたしたちの誇りだから、よろしくね」

「ええ。何も気にせず、全部わたしに任せて」

 少女は、決意の眼差しをベニへ向け、力強くうなずいた。

「さあ、行った行った! 振り返らないで走って! 早く」

 ベニは、ハカナから離れると急かした。

 ハカナに背負われた時、痛みと共にこの光景が脳裏に浮かんだ。あの山奥の宿だった。言うとしたら、今しかない。

「待ってくれ」

 黒猫紳士は、後ろを見ずに口を開いた。どんな表情をすればいいのか、わからなかったからだ。

「すまなかった、ベニ。私は信じることが……あの……どう、何を言えばいいのか」

 言葉が続かなかった。途中で嗚咽に変わってしまった。

「ありがとう。あたしを、待ってくれて」

 思いもよらぬ言葉に、思わず顔を上げた。黒猫紳士が見たのは、燃える炎に負けぬ、花のような笑みだった。

「ああ、ああ! こちらこそ、ありがとう、ベニ。……さよなら」

 やり取りを見ていた少女は、辛そうに立っていた。そんな彼女の背中を押したのは、ハカナだった。

「二人とも、行こう。ベニ、ぬいぐるみ、大切にするね。……バイバイ」

 三人はひたすら山を下り、途中でインク馬に乗り換え、街へ戻った。

 

 その後は静かな、しかし、小さな幸せに満たされた日々だった。

 主要拠点を失った過激派団体の活動は、一気に鎮静化。ついえるのも時間の問題だった。

 黒猫紳士は、傷の療養を理由に旅を中断。町の人々に支えられながら、三人で平和な日々を過ごした。

 そして、ハカナと初めて出会った日から、ちょうど一か月たった頃、ハカナはこの世を去った。ベッドの上で眠ったまま、二度と目覚めることはなかった。

 黒猫紳士は、ハカナが死んだという実感のないまま、トランクにクマのぬいぐるみをしまった。

 きっと、気持ちは後からついてくるのだろう。ふとした時に、思いがけぬ鮮烈さで。

「行こう、スピネル」

「ええ、ねこさま」

 彼女たちの生に意味を与えるべく、二人は今日も旅をする。

 

異世界転船 ショートショート

 異世界船の乗組員たちは疲弊していた。窓の奥に広がる漆黒の空間を眺めながら、船員がぼやく。
「遠い昔、トラックに轢かれて、中世ヨーロッパ風のファンタジー世界に転生する小説が流行ったそうで」
「当時は笑い話だったのだろうな……」
 船長が言った瞬間、窓から光が差し込んだ。船内に緊張が走り、報告の嵐が始まる。
「西京高速道路上空1500メートルにワープしました」
「レーダーに反応あり。ナンバー読み上げます。け29-71、あ29-43……」
「よし今回は、き81-89にしよう。総員轢殺に備えよ!」
 船は徐々に高度を落とし、高速道路を走るトラックの内一台に接近。タイミングを見計らい、トラックに突進する。異世界船が無残に轢かれたのに対し、トラックは何事もなかったかのように走り去った。
「痛ッ……職務とは言え毎回トラックに轢かれるのはつらいな」
 転生を果たした船長たちは、異界の森でため息をついた。

ショートショートガーデンが面白い

 最近小説投稿サイトであるショートショートガーデンにはまってます。2日に1度のペースで更新していて、現在10以上の作品を投稿しています。

 

short-short.garden

 

 このサイトの特徴は何といっても気楽さです。ショートショートの名に恥じず、文字数制限が400字なのです。短編小説と呼ばれるものでも10000字前後、どんなに短く小説を書こうとしても、大体1500~4000字程度になってしまうはず。そんな中での400字制限。

 Twitterに換算すると3リプ半で文字数制限に達します。原稿用紙ならちょうど一枚分。実際に書こうとすると登場人物の説明を1言で終わらせないと間に合わないレベルです。なかなか厳しい制限といえるでしょう。

 しかし、400字なら、アイデアさえあれば私のような遅筆でも30分程度で書ききれます。文章を整えたり、誤字脱字チェックするのも楽。小説の一言一句制御したい私にとって、非常に書き心地がいい環境です。

 また、閲覧面でも便利です。ほかの人の作品を確認するのも、数分で済みます。400字完結なので、未完のまま作者失踪……などという心配もありません。また、短文に全力を注ぐ性質からか、適当に新着を覗いても、ハズレの作品が少ないように感じます。

 長編小説は書けないけど、ちょっとした短編なら書いてみたいという方。小説を書くリハビリをしたい方や、物語におけるオチの特訓をしたい方にぜひおすすめです。