フゥルの鉛筆画ブログ

鉛筆画のイラストや絵を中心に描いています。黒髪が大好きです。時々短編小説も書きます。

黒猫紳士と黒髪少女

 橙色の空、果てしなく続く草原に、女の悲鳴が響く。女を庇おうと全力で走り出すが、決してたどり着くことはない――。

 いつもの夢から目覚めた。

 屋敷の地下、本棚で埋め尽くされた暗い地下室。消えることのない松明が心もとなく本棚を照らしている。部屋の中央をチョークで描かれた魔法陣が陣取っている。長い間この光景がすべてだった。

 唯一ある扉からカツカツと軽快な足音が聞こえ、目を覚ます。やがて足音はどんどん大きくなり、バンっと勢いよく扉が開いた。転がり込んできたのは、黒髪の少女。白いシャツに黒のプリッツスカートを履いている。少女は顔を痛そうにしかめながらも、力任せに扉を閉めた。錠前に鍵が刺さるまで何度も押し付け、ようやく鍵を閉めたようだった。

 突然の出来事に頭が追い付かない。

「ぜぇ……ぜぇ……。ターコイズおじさん、どうして……」

 少女は長髪をゴムで束ねるとポケットからしわくちゃになった紙を取り出す。魔法陣と見比べつつ、図に線を付け足していく。画材は指から染み出てくる鮮血。

 ドアから乱暴な靴音とうなり声が聞こえてきた。

「スピネル、仲間になれ、仲間になれ」

 扉が激しく揺れる。思わず少女に手を伸ばしたが、見えない壁に激突した。

 少女がこちらを見て体を震わせる。一瞬おびえたような表情を浮かべた。しかし、扉から金具のきしむ音に、首を振り、小さい口を大きく開いた。

「封印の一族の名において宣言する。この世界の敵、許されざる大災厄、人魔! 今こそ封印から解き放たれ、我を加護せよ!」

 少女はソプラノの声を響かせながら、紙を魔法陣に投げた。彼女の血で赤く染まった紙が接地すると同時に、魔法陣は消え去った。

 封印が解けたことでこの身が実体化する。

 モーニングコート及びウェストコートよし。手袋よし。ネクタイ、胸ポケットのスカーフよし。オールシーズン対応の灰色のズボンも着崩れしていない。平衡感覚を司る髭も、こだわりの黒い毛並みも万全。

 そして腰のベルトに刺してある、何より大切なステッキも、異常なし!

「黒猫の……紳士……さま!? 助けてください!」

「もちろんだ」

 少女はようやくこの姿を認識したらしい。恐怖と混乱がないまぜになったような顔持ちだった。

 扉を打ち破って、剣を持った男たちが流れ込んできた。最後尾に豪華な服装をした初老の男。だがどうも様子がおかしい。顔が青白く、青色の血管が顔に浮かび上がっている。

 少女は壁際まで逃げると、しゃがみこみ、腹を抱えてガタガタと震え始める。

 黒猫紳士は剣士たちと少女の間に割って入った。初老の男が口を開く。厳格ではあるがどこか空虚な響きの声だった。

「少女を渡せ。さもなくば我々の仲間になれ」

「断る。紳士は助けを呼ぶ者に手を差し伸べるもの。貴様らには指一本触れさせん」

「残念だ。不死の素晴らしさがわからないとは」

 初老の男の号令で、周囲の剣士たちが展開した。黒猫紳士は背筋を伸ばしたまま、ベルトからステッキを引き抜く。一人目の剣をステッキで打ち流す。

「力は逸品。しかし、技術なくして勝利なし」

そのままわき腹に先端をめり込ませる。続く剣撃を一歩引いてかわし、足払い。杖で頭を打って気絶させる。猫を彷彿とさせる軽やかなステップは、剣士たちを一切寄せ付けない。流れるような動作で、剣士たちを制圧していく。

最後に、あとずさりする初老の男の首へステッキを突き付けた。

「殺さないで!」

「安心しろ、全員生きている」

 後頭を打つと、初老の男はがっくりと膝をつき、昏倒した。

「大丈夫か?」

 猫の紳士は少女の前で膝をついた。サスペンダーをただし、シャツについた埃を払うと、汗をシルクで拭う。最後に震える手をそっと握った。

「ありがとう。わたしはスピネル。でも、ごめんなさい。今あなたにしてあげられることは何もないの」

「封印を解いてくれただけで十分だ。それは、あの両親の娘である君にしかそれはできない。もし、それでもお礼が言いたいのなら君の親に言ってくれ。これは単なる恩返しだ」

「お父さんとお母さんは……遠いところに言っちゃったの」

 黒猫紳士は絶句した。あまりのショックにぽっかりと穴が開いたような気分だった。本を与え、紳士としての心得を説き、暴走する精神を制御する術を教えてくれた上、人の心をよみがえらせてくれた、唯一無二の親友にして師にして第二の親。それが彼らだった。

「そうか……あの二人が……」

「わたしも……もうすぐお父さんとお母さんのところへ……」

 スピネルの目線を追うと、鮮血で描かれた足跡があった。そして、今も血だまりが少女の足元で広がりつつある。蒼白な顔には精気が感じられない。

「まさか、自分が助かるためではなく。この私を開放するためだけにここまで来たのか!?」

「だって、あなたはお父さんとお母さんの大切なご友人だもの……」

 出血はひどいが傷自体は深くないようだった。黒猫紳士はいったん上着と手袋を脱いだ。続いて腰に巻いたコルセットを外す。シャツを爪で破き、包帯代わりにスピネルの腹に巻く。さらにコルセットで補強した。

「どうだ? 少しは楽になったか?」

「ねこさま、ありがとう」

 笑顔を浮かべたスピネルが飛びついてきた。動揺を隠し、彼女をそっと突き放す。

「私はかつて人に大いなる災いをもたらし、封印された人魔だぞ? それを『ねこさま』だと? 怖くないのか?」

「だって、見た目はただの猫人だもん」

「せめて黒猫紳士と――」

 少女は「あ、そうだ」と話を遮り、倒れた剣士たちの安否を確認しに行こうとした。が、すぐに反転し黒猫紳士に駆け寄った。

「ねこさま、あっあれ!」

 剣士たちがまるで糸に吊られた人形のように、ゆらりと立ち上がった。しかも、ステッキによってついた痣が見る見るうちに消えていく!

「なぜ仲間にならない? 死の恐怖から逃れられるのに」

 黒猫紳士はスピネルを強引に脇本へ抱えた。

「痛っ!」

「逃げるぞ」

 部屋から出て螺旋階段を駆け上がる。階段の壁には五枚の花弁を持つ白い花、イヌシラクサが等間隔に飾られている。

「あれは、なんなの?」

「彼らから微弱だが私と同類の魔力を感じた。恐らく人魔の力による変質だろう」

黒猫紳士は先ほどの戦いがきっかけで思い出した、『対人魔防災危機管理マニュアル第三版』の一節を口にした。

「魔力は精神活動などによって活発し、人の肉体や外界に変化をもたらす、生活になくてはならないエネルギーである。しかし、精神が強いストレスを受け暴走すると、魔力もまた制御不能となり、自身の肉体と精神に破滅的な変化をもたらす。そして異形化した精神がさらに魔力を暴走せる負のループが出来上がる。ほとんどの人はその段階で死ぬが、まれに生き残ることがある。その場合、強大な魔力を自らの願望のためだけに振るう人魔となってしまう」

「よくスラスラ出てくるね」

「昔、人魔討伐を志す組織にいたことがある。今でもそういう組織は存在するのか?」

「『天使』と呼ばれる組織がある。でも、現地に到着するまでに、人魔発生から三日は要するって……」

「ずいぶん早くなった。私が生きた時代では、人魔が死んでから到着するのが当然だったのに」

 気が遠くなるような段数を上ると、金属製の扉があり、開けると倉庫に出た。木箱と木箱の間を通り抜け、倉庫から飛び出し、屋敷の中を疾走する。絵画や小物が飾られているが、鑑賞する暇はない。

「ねこさま、突き当りに窓!」

 ステッキで窓を割ろうとした時、体が動かなくなった。何事かと手元を見ると、細かく震えている。外の世界を潜在意識が恐怖しているのだ。地下に自由などない。でも心のどこかで「不便だがまあいいだろう」と思っている自分がいる。「うまくいきっこない、どうせ無理だ、危険すぎる」そんな、変化を恐れる本能の叫びが聞こえてくる。

 変化を恐れるな。根拠なき恐れに屈するな。

「ねこさまも気になるのね。もしかしたら、屋敷の中にまだ生き残りがいるかも」

「なら、なおさら早くこの元凶を倒さねば」

 こんな状況でも、スピネルは他人のことを考えている。黒猫紳士は自分を恥じた。そして、ようやくステッキで窓をたたき割ると、屋敷を脱出した。

 暗い夜空に茜色がのぞいている。夜明け前の冷たい空気が肌をなでる。新緑の香り、土を踏む感触。生きて外に出られた、その事実だけで黒猫紳士は感極まって泣きそうだった。屋敷は山の斜面に建っており、少し進めば麓の街を見下ろせそうだった。一方背後は崖で、素直に山道を通り、山頂へ上るには大回りするしかない。

 黒猫紳士はスピネルを下と、胸ポケットから折り畳み式双眼鏡を取り出し、街を一望する。

 二重の意味でショックを受けた。一つは、封印される前に見た自身が知る街の姿と、今眼前に広がっている街――マデクーン国に共通点が何一つなかったこと。もう一つは、先ほどの剣士のような青い血管が浮き出た町人であふれかえっていたことだ。そのうえ登山道から相当数の人がこの山へ入り込んでいる。しかも、地下で戦った時よりも足が速くなっていた。このままでは追い付かれる。

 ただ一つの救いは、彼らは組織だった行動はせず、ただ見つけたそばから人を襲う、という一点のみだった。

 スピネルが双眼鏡を覗こうとしてきたが、首を横に振り取り上げる。何が見えているのか察したのか、スピネルは拳を握りしめ、震える声で言った。

「ねこさま、できる限り早く勝つ、具体的な手段はないの?」

「暴走した肉体は長くは持たず、通常、能力を発揮してから長くても一週間で自滅する。人が変化したものであるから物理的な攻撃も有効だ」

「でも、今回の人魔は不死身じゃ?」

「頭がさえているな、スピネル。その不死の能力そのものを封じてしまえばいい」

 猫紳士はスピネルをいったんおろしてから、彼女をおんぶし、屋敷の背後にある崖へ向かって駆け出した。

「どこへ行く気?」

「山頂。魔力濃度の濃い山頂で、君が魔法陣を張れば対処できるはずだ。人魔封印の一族である君なら、な」

「でもねこさま、そっちは道から外れてる。タカ山は一号路から八号路まであって、屋敷から山頂に行くには、舗装された三号路からぐるりと山を回っていかないと……」

 崖のそばにたどり着くと、ステッキを取り出し、捻る。カチッという音とともにステッキの上部に引き金が飛び出した。引き金を引くと先端からワイヤーが射出され、崖の上に引っかかった。黒猫紳士は綱引きの要領で断崖を登り始める。

「これで七号路半ばまでショートカットできたな」

「すごいけど、どうしてそんなステッキを買ったの?」

「さすがにこんな奇妙なもの自分では買わないさ。大事な人にプレゼントされたんだ」

 ちょうど話が終わったところで崖を登りきった。ステッキの引き金を引きワイヤーを巻き取る。二度引き金を引きカットしたほうが手っ取り早いが、山にゴミを捨てるのは紳士の行いではない。

 タカ山の山道は号数が大きくなるほど過酷さを増す。きれいに整地され傾斜が緩やかな一号路と比べ、七号路は全体的に道幅が狭く、ハイシーズンには一方通行規制がかかるほどだ。

「暗くて全然前が見えないけど大丈夫?」

「猫人は暗闇で目がいい。髭のお陰で平衡感覚も抜群。深夜ならともかく、日の出近くなら十分動ける」

 道には木の根が露出してすべりやすい上、中盤から小川が脇を通る。斜面には魔除けで有名なイヌシラクサをはじめとする草木が生い茂り、ギスやヨモグといった巨大な樹木が道を阻むように伸びている。山頂への距離三分の二の地点で小川をまたぐように橋があり、七号路が観光の名所となっている。

 いつか旅行したいとタカ山のガイドブックを読んだことがあったが、こんな形で役に立つとは。こんな時でなければ、じっくり自然観察しつつ、スピネルに知識を享受したいところなのだが。

「ちょっと、ねこさま!」

「遅かったか」

 崖際で鎧を着た男が、三人の町人に囲まれていた。がむしゃらに剣をふるっているが、もうすでに町人たちは彼の眼前まで迫っており、助けるのは無理だ。

 男が足を滑らして転びそうになった。その時不可解なことが起こった。町人の一人が男へ手を差し伸べ、残る二人は倒れぬようにフォローに入ったのだ。男は困惑した様子で彼らを見る。直後、手を差し伸べた町人が、そのまま男の首にかみついた。男はガクリと頭を垂れる。再び頭を上げた彼の顔には、青色の血管が浮かび上がっていた。

「あんな見た目でも、思いやりの心はあるのね」

「まあ、なんにせよこんなものを放っておいたら、ものの数日で周辺国も陥落してしまうだろう。逃げるという選択肢はなくなったな」

「元から逃げるつもりなんてない」

 計四人の町人が一斉に黒猫紳士を睨み、走り出した。自己再生能力があるのをいいことに、両手足がケガするのも構わず、肉体の限界を超えた速さで向かってくる。地下で戦った時よりも明らかに動きが洗礼されていた。

「不死身になれば未来に恐怖することもない。仲間になれ!」

 町人は口角が裂けるほど大きく口を開き、噛みつこうとしてきた。とっさにステッキで薙ぎ払う。

抱っこしているスピネルの手の力が強くなり、息遣いが荒くなった。

「ねこさま、人魔の力は使えないの? こう、寿命が減らない程度に加減して」

「使えない。どういう力を持つのか自分でもわからないのだ。だが、体力と筋力には自信がある。何せ封印されている最中やることと言ったら、読書か、瞑想か、筋トレくらいしかやることがなかったからな!」

 圧倒的な筋力と、どんなダメージもすぐ回復してしまう不死体質は厄介だった。倒すことができないので人数が減ることはない。山道を進むにつれて、最初は四人だったのが五人、六人と、道ずれがどんどん増えていく。十人を超えたところで余裕がなくなってきた。紳士としての意地で平静を装っているものの、どこまで続くかわからない。

 しかし、負ける気はしなかった。スピネルの「大丈夫」とか「頑張って」という言葉を聞くだけで、無尽蔵に力が湧き上がってくる。人に必要とされることがこんなにも心地よいことだったとは。

「そうだスピネル、山頂についたら手伝ってほしいことがある。――このっ! 私の言うとおりに地面に図形を書き、とある文言を言ってもらう。できるか? ――はぁっ!」

「それだけでいいの? こんなに助けてもらっているのに」

「十分すぎる」

 地面に図形を書く。それはすなわち、黒猫紳士の背中から降りて、不死者たちの群れと対峙しなければならないということ。それを二つ返事で了承するとは予想外だった。黒猫紳士は驚愕するとともに、この子を守ると決めたのは決して間違いではなかったと確信した。

 町人たちをやり過ごしながら進むと、やがて道の脇に小川が流れ始め、だんだんと大きくなり、しまいに年季の入った橋が見えた。橋に乗るついでに、腐りかけの支柱をステッキで思いっきりぶっ叩く。続いて町人が殺到すると、橋は大きな音を立てて崩れ落ちた。最終的に、ワイヤーで気にぶら下がった黒猫紳士とスピネル以外全員、川の中へと消えてしまった。

「大丈夫かな?」

下流は一号路に合流する。流れは穏やかになり水位も低くなる。死ぬことはないだろう。服がボロボロで恥ずかしい思いをするかもしれないが」

 木々の生い茂る七号路から、急に開けた場所に出た。屋根のある休憩所とトイレがポツンとあるだけの広場。休憩所には山岳信仰の名残で丸頭の石像がある。広場の端には、山頂と刻まれた木柱がある。日の出前のぼんやりとした光に照らされた展望台からは、シロヤ湖を挟んでマデクーン国が見下ろせる。

 準備ができた、と背中の少女に声をかける。

「肉体を変化させるのは人魔の得意分野」

 スピネルが背中から飛び降りた。

「それを封じるのが私の得意分野!」

「スピネル、今目の前のことに集中しろ。周りの奴らは気にするな」

 頷いたスピネルにペンを渡す。スピネルはそれを用いて、地面に魔法陣を描き始めた。

 スピネルが図形を描き終わる直前、聞きなれない声が響いた。それと同時に不死者たちが静止した。

「太古、栄華を誇った皇帝は最後に不死の霊薬を求めた。液体金属を霊薬と間違えた結果中毒死したが、それはともかくだ。人は常に死を恐怖し、不死を求めた。覇者すら求めた永遠を、なぜおまえたちは拒絶するのか」

 骸骨。青黒い肉塊が所々に付着している。口を開くたびに緑の煙のようなものが漏れ出る。

「俺は人魔、タナトフォビア。死を憎み、生を愛す者。お前たちも俺たちの仲間になれ」

「お前が、この町の人々を不死化させたのか」

 骸骨人魔はゆっくりとうなずいた。スピネルが地面から顔を上げ、にらみつける。

「なぜこんなことをしたの?」

「人々を不死化させることで死への恐怖から解き放ち、知能を下げることで未来への恐怖から解き放つためだ。人は生きている限り死の恐れから逃れられない。さらに知恵をつけてしまったためにその恐怖は加速してしまった。君もこれまでにあったはずだ。死を意識して動けなくなってしまったことや、死による喪失を恐れおののいたことが。もう一度聞こう、我々の仲間に加わらないか? 死の恐怖や寿命の束縛から解放され、のびのびと生きてはみたくないか?」

 タナトフォビアの言葉にとげとげしさはなかった。声色からして本気でこちらを慮っているようだった。

「いいえ」

 今度はこちらの方を向いた。タナトフォビアからほのかな期待を向けられているのが黒猫紳士には感じられた。

 朝焼けを浴びながら、黒猫紳士はゆっくりと手袋を外す。

「死は怖い。それは大多数の人にとって共通の認識だろう。だがな、死には安らかな死もある。幸福な死もある。死は絶対的な不幸と思い込み、全人対を不幸とし、その考えを強制的に他者へ押し付ける、お前の行動は破綻している」

 黒猫紳士はステッキを振りかぶりながら、猫の脚力を活かし大跳躍。ステッキをタナトフォビアへ叩きつけようとする。対して骸骨は二の腕でステッキを受け流す。すかさず開いた胸元へ追撃。しかし、肘と足でブロックされてしまった。

「素直に死の恐怖と向き合えばいいものを」

「自分が動いている間、不死者は動けないようだな。とんだ欠陥能力だ」

「死という致命的欠陥を持つお前たちに言われる筋合いはない」

 黒猫紳士はバク転をしつつ距離を取る。対してタナトフォビアは自身の肋骨をガシャっと外すと、それをブーメランのように投げつけてきた。跳躍してかわしたものの、追い打ちの骨が迫る。

「空中じゃかわせない!」

 スピネルの悲鳴じみた声。黒猫紳士はステッキからワイヤーを射出。近くの木に引っ掛ける。ワイヤー巻き取り機能を利用して、自身の軌道を変え攻撃をかわし、無事着地。スーツにかすった程度の被害で済んだ。

「死は知るすべがない。体験することもできない。誰にもその正体がわからない。死は最大の未知故に、最大の恐怖なのだ」

 三本の骨が投げられる。黒猫紳士は最初の二本を杖で弾き、最後の一本をワイヤーで釣りステッキごと相手へ投げ返した。ワイヤーは見事に骸骨に絡みつき、動きを封じる。黒猫紳士は大きく跳躍。タナトフォビアの眼前に立つと、爪を用いて下段薙ぎ払い、中段追い突き、上段切り上げを流れるように放つ。骸骨はバラバラと崩れた。骸骨の残骸のそばに転がったステッキを回収。ワイヤーを切り、骸骨の残骸にさらに追撃を開始する。

 しかし、大方の予想通り骸骨は再生していく。黒猫紳士はそれでも執念深く骸骨をたたき、蹴飛ばし、ステッキで弾く。

「無駄だ、俺は不死。死の恐怖から解放されている」

「では、その生の呪縛から貴様を開放してやろう。スピネル!!」

 背後からソプラノの凛々しい声が聞こえてきた。

「封印の一族の名において宣言する。この世界の敵、許されざる大災厄、人魔! 今こそその力を封じ、その存在を否定する!」

「なっ!?」

 骸骨が今まさに立っている場所。それは先ほどスピネルが描いた魔法陣の真上。全ての攻撃は奴をこの場所へ誘導するためだった。即席の魔法陣ではあるが範囲を小さく限定したうえで、山頂という場所と、群生する対魔花イヌシラクサによる弱体化が合わされば、人魔の一匹や二匹、どうということはない。

「不死は人魔の魔力によってもたらされた偽りのもの。ならばその根幹を断つまでだ」

 骸骨がまがまがしい悲鳴を上げる。骨に付着した肉塊が筋肉へと再生し、その上を皮膚が被さる。目や髪の毛、そのほか人間に必要な全てが、骸骨を覆った。タナトフォビアは、人魔としての魔力をはく奪され、ただの人へと回帰したのだ。彼は、あきらめたかのようにうなだれ、ポツリ、ポツリと自分の身の上を話し始めた。

「人魔になる前、俺は肺をやられていた。ベッドの上から動けず、日に日に弱っていく体。まともに呼吸すらできず、医者にもさじを投げられ、療養病室へと送られた。先立っていく同室たちを何回見送った。いつ自分の番が来るのかわからない。何段あるかわからない絞首台を一段ずつ上っていくような気分。怖かった。死ぬのがたまらなく怖かった。俺はそこで真の恐怖を覚えたのだ」

 そして懇願する。

「スピネル、俺に協力してくれ。あと一日もあれば俺はさらなる力を手に入れ、死者の復活など造作もなくなる。協力してくれた暁には、君の大切な人を生き返らえせよう。死んだ当時のまま。よくある副作用付きの復活じゃない。正真正銘の完全復活。明日になれば、それができる。悪い話じゃないはずだ。俺はこんなところで恐怖にのたうち回って死ぬわけにはいかない! 死の恐怖から人類を開放できるのは俺しかいないのだから!」

 スピネルは目を大きく見開いて、タナトフォビアに顔を向けている。手を握りしめ内面にいる何かと必死に戦っているようにも見えた。

「タナトフォビアが嘘をついているようには見えない。彼のやり方は少々強引すぎるが、共感できる部分もある。死者の完全蘇生、今後二度とこんな機会はないだろう。君の好きにしろ。後のことは私が何とかする。でも、後悔だけはするな」

 死者の完全蘇生。その響きになぜか恐ろしく重い罪の意識を感じる。無意識のうちにステッキの柄を見つめていた。やがて胸がたまらなく痛んで涙腺が緩み、思わず空を見上げた。橙色の空。草原の幻覚が重なり、どこからか女の悲鳴が聞こえる。

 スピネルは未だ迷っているようだった。

 重苦しい沈黙が続く。永久に続くかと思われたが、ついにスピネルの唇が動いた。

「納官の日。たとえ頭から顎にかけてひもをまかれていたとしても、その目がビー玉で代用されていたとしても、腕輪で無理やり手を組まされていたとしても、体に綿を詰められていたとしても、お父さんとお母さんの表情は穏やかだった。不条理に満ちた現実世界に生き返らせるなんて残酷なこと、わたしにはできない。でもね、何より……」

 突如、スピネルが豹変した。顔を真っ赤にして奥歯をかみしめ、涙を垂れ流し、荒々しい声で思いっきり叫び声をあげたのだ。黒猫紳士も、タナトフォビアも、唖然とするしかなかった。

「お父さんもお母さんもいない! その上お前みたいなやつと戦い続けなきゃいけない! こんなっ、こんなっ、こんなっ、辛く苦しい世界で! 生きる夢も目標も目的もなく、永遠に生き続けろですって? ふざけるな! 消えろ! わたしから死を奪い取る悪魔め、二度と私の前に姿を見せるな!」

 スピネルに対して頷く。タナトフォビアへ向けて左手を前に出し、ステッキを持つ右手を大きく引いた。そして、前に踏み込みつつ、ステッキを力の限り突き刺した。その時、かすれた声でタナトフォビアが呟いた。

「また、病室にいたみんなと、本の回し読みをしたかった……」

 黒猫紳士はゆっくりと頷くと、ステッキを引き抜く。人魔は顔をしかめ涙を流しながら、朝日に飲み込まれて消滅してしまった。

 安堵からかだろうか。スピネルの体が、魂が抜けてしまったかのようにぐらついた。黒猫紳士は身の慣れた身のこなしで彼女の体を優しく抱きとめる。

「ねこさま、……ひっぐ……。うぅ……怖かった……」

腕の中で延々と泣きわめき続けるスピネルを見て、黒猫紳士は決意する。

私が守らなければならない。その身を、何よりその心を。

「帰ろう。新たな日常が待っている」