狂気と憎悪と私 第三部 短編小説(暴力描写有)
※今回は軽い暴力描写があります。そういうのが大の苦手、という人はブラウザバックを推奨します。
↓の小説の続きです。
今回のアウレイスの台詞は坂津さん( id:sakatsu_kana )に書き起こして頂きました。全面的な協力ありがとうございます!
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私は驚愕して、アウレイスに話しかけた。
アウレイスの頬に決して小さくない痣が浮かんでいたからだ。
「話したくなければ話さなくてもいい。でも、聞いてほしい悩みがあるなら私が聞こう。絶対に誰にも言わないから……」
アウレイスはポツリ、ポツリと話はじめた━━
私は驚愕した。アウレイスはルビネルと交際していたのだ。以前、私はルビネルにキスビットへ社会見学に行かせた。そこで二人は一目惚れしてしまった。ホームステイという形でルビネルの家に泊まっていたらしい。
そして、私が気にしていたアウレイスの痣の正体は……首輪を謝ってきつく閉めた時や、猿ぐつわをつけたときにできてしまった跡だった。一部にそういう趣向を好む人がいるとは聞いていたが、彼女たちはまさにそれだった。
私が虐待を疑い、アウレイスに心魂を注ぐきっかけになったあの傷痕は、あろうことかルビネルとアウレイスの愛の形だったのである。
ただし、今回の頬の痣だけは別で、これはルビネルが突然暴力振るったために出来たものらしい。なぜ、そこまでルビネルが取り乱していたのかはアウレイスにもわからないのだという。
私の胸には様々な感情が去来している。はからずとも二人の恋愛に水をさしてしまった申し訳なさ。生徒がこんなことをしていたことに対しての驚き。ルビネルの見てはいけない側面を見てしまったという後悔。その他にも言葉にならない感情が私の心をかきみだしていた。
そして……そんな感情のうち、際立っていたのが久しく感じたことのない感情だった。
アウレイスをルビネルが支配していることへの、なんだ?怒りか?憎しみか?憧れか?
いや……嫉妬だ。
私はアウレイスに無意識に聞いてしまっていた。「君の過去について教えてくれないか?」、と。
私は当直のタイミングを利用して、夜の研究室にアウレイスを呼んだ。学校には当直担当の教師どある私と、私の呼んだアウレイス以外いないはずだ。
部屋に二人だけなのを確認すると、アウレイスは重々しく話始めた。
「私の過去……私はそれに縛られて生きています……忘れてしまいたい、でも決して忘れることはできない過去……貴方にそれを話せば、私は救われますか?」
「きっとそれには大変な労力と時間がかかってしまうだろう。でも、私は君の話を聞くことはできる。辛いことを一人で抱え込む必要はない。私にはなしてごらんなさい。そのあと、少しでも君が楽になれる方法を一緒に話し合おう。ゆっくりと、じっくりと……。焦らず話して。君はきっと救われる。いや、救ってみせる。一人の人として」
私はまっすぐアウレイスの瞳を見据えた。対してアウレイスは顔をしたに向けて、苦悶の表情を浮かべた。
「私は過去を人に話したことはありません。それは、話せばきっと、私は軽蔑されてしまうから・・・。せっかく手に入れた普通の暮らしを、私は失いたくないから・・・でも、タニカワ教授を信じます。信じて、いいよね?」
そして、アウレイスの口から信じがたい凄惨な過去が語られた。
━━━
『一番古い記憶は、懸命に謝りながら私を犯す父の顔。ご主人様の命令だから仕方ないんです。頭では分かっていたけれど、私の体はまだ受け入れられるだけの準備ができていなくて、ただただ痛くて苦しくて、泣きわめくことしかできませんでした。
父がご主人様から受けた命令は「娘を気持ちよくしてやれ」でしたが、私がいつまでも泣くものだから、父はご主人様に殺されました。父は動かなくなりましたが、まだ私の中に居て、私は身をよじって重たくなった父の下から抜け出しました。
父の温かい血液が私の胸を染めていました。ご主人様は私の髪の毛を掴んでお庭の池に引きずっていきます。そして私を水中に放り込みました。その後ご主人様は私の頭を押さえつけ、私が溺れてしまうギリギリのところで引き上げることを繰返しました。
私が顔を上げる度にご主人様は何か言っていましたが、私は息をすることに必死で内容はよくわかりませんでした。ただ、謝ることしかできませんでした。やがてご主人様の気が済んだのか、私は水責めから解放されました。普通に呼吸ができることに幸せを感じながら、私は気を失ないました。
下腹部の痛みで目が覚めました。見ず知らずの男の子が、私の上に乗っていました。すぐに、父のときと同じ状況だと分かりました。男の子は父よりも激しく乱暴に動くので、私はまた、痛みのために泣き出してしまいました。それでも男の子は動くことをやめませんでした。
男の子は殺されました。また私は池に放り込まれ、遠退く意識の中で、あぁ、ご主人様は私を洗ってくださってるんだって気付きました。その晩、父の居なくなった奴隷小屋で私は、新顔の奴隷から暴行を受けました。「お前のせいで弟は死んだ」と、彼女は私を殴りながら哭いていました。
奴隷はご主人様の所有物です。それを奴隷が傷付けることは許されません。彼女はどこかへ引きずっていかれました。ご主人様は傷とアザだらけの私を見て「もう駄目だ」と言いました。ひどく残念そうでした。後から知ったのですが、ジネでは銀髪の奴隷は珍しく、きちんとしつければ高値で売れるそうです。
傷の痛みと腫れ、発熱で眠れぬ夜が明けると、私は見知らぬ鬼に引き渡されました。中古奴隷の引き取り業者ということでした。彼らは怪我や病気などで主人の意に添わなくなった奴隷を二束三文で買い取り、回復した奴隷を再販することを生業にしています。
ここで私は、同じく療養中の奴隷から色々と話を聞くことができました。それでやっと私は理解したのです。私の役割を。そこからは坂道を転がるようでした。新しいご主人様の元で繰り返される折檻に、それをどうにか快楽に変換するよう、必死で脳を騙しました。
ジネの奴隷には労働用、愛玩用、遊戯用など、様々な用途に分類されますが、私の用途は見世物だったようです。この髪のせいでしょうね。私に与えられた役割は、何をされても悦ぶ、というものだったのです。
習慣と自己暗示ってすごいんです。私はこの倒錯した愉悦、狂った感覚を、強制されることなく自分の生来の性質であるかのように受け入れました。だからほら、見てください。今こうして教授にお話ししている最中でも、当時のことを思い出してこんなに・・・。
でも悦ぶのは体だけ。心はずっと臆病なままなんです。人の敵意が、攻撃性が、悪意が、憎しみが、私に向けられるのが恐いんです。怖くて怖くて、息もできない。それでも・・・ね?体はこんな風になってしまう。バラバラなんです。私の心と体は』
━━━
アウレイスは誘導していた私の手を下腹部から離した。「ごめんなさい、汚しちゃって」と言って、アウレイスは私の指から糸を引く粘液を舐めとった。丹念に、丁寧に。
「これが私の正体。浅ましく汚れて狂った体と臆病で弱い心。最低でしょ」
アウレイスの頬に一筋の涙が落ちた。
「いいや、環境がそうさせたんだ。君はなにも悪くない」
優しくアウレイス撫でる私だったが、何か違和感を感じた。当直の教員である私以外、誰もいないはずなのに……
誰かの気配を感じる。
気のせいだろうか?
いや、今はアウレイスが先決だ。
私は静かにアウレイスをなで続けた。私に敵意はない。劣情もない。安心していい。
そう念じながら何度も撫でた。言葉で表現するよりも行動で示すのが私のポリシーだ。
「安心します。こんなに穢れた私でも、教授は優しくしてくださる……」
アウレイスは私の胸に顔を埋め、撫でられ続けた。
「何か、我慢していることでもあるのか?」
察してはいるものの、私の確固たる理性が危険信号を発信していた。これ以上踏み込むと、大変なことになる、と。
ただ、たまらなくアウレイスを欲しているのもまた、事実だった。
「でも、教授は優しいから・・・」
次の言葉を一瞬ためらった後、アウレイスは意を決したように続けた。
「相手を傷つけるような行為はお嫌いでしょう?でも私はそれを求めてしまう……そんな壊れた遊戯に、お付き合いくださいますか?」
そう言うと、アウレイスは教授から離れた。そして椅子に座っている教授を見降ろしながら、ゆっくりと服を脱いだ。
私は一瞬、どうしようか迷った。ルビネルのように誘惑をしてくる生徒は見たことがあるが、自分の肢体を突きつけてくる生徒なんてこれまでにはいなかった。アウレイスは厳密に言えば私の学校の生徒ではない。個人的につき合う分には問題ないのではないだろうか。私はアウレイスの美しい流線形を描く体に手を伸ばした。
たが、私はすぐに手を引っ込めた。二人で欲望のまま貪りあったところで、アウレイスの何になる?アウレイスの一時的な欲求を満たせばそれでいいのか?
私はゆっくりと立ち上がった。私の体を求め伸びてくる、アウレイスの手を、優しく下ろす。
そして私はスーツを脱ぐと、アウレイスにかけてあげた。
「私は暴力から産まれた、そんな哀しい遊びに付き合えるほど、強くないんだ」
私はなにかを言おうとしたアウレイスの背中に手を回し、優しく引き寄せた。
抱き合う二人、長い沈黙。
しばらくして二人の密着した体が名残惜しそうに離れていく。
「本当に、本当に優しいんですね、教授。でも……分かってます?私がどれだけ勇気を振り絞ったか。それを台無しにしちゃった責任、取ってくださいね」
アウレイスはそう言うと私に上着を返し、手早く自分の服をまとった。
「なーんて、うふふ。冗談ですよ。それにきっと私たち、上手くいかないわ。私はきっと教授の優しさに物足りなさを感じちゃう。そしてきっと教授は私に罪悪感を持つでしょうし……」
アウレイスはくるりと回り、私に背を向けた。
「教授、本当にありがとうございました」
「どういたしまして。アウレイス」
私がそう言った時だった。何者かが、廊下を走り去る音がした。私は反射的に追いかけた。
「アウレイス!遅れてもいいから一緒に来なさい!」
私は勢いよく扉のロックを外すと教室を飛び出した。
足音は階段を登り、どんどん上の階に移動していく。
私の頭のなかで自分の心の声が反芻する。
『保護者がこどもの敵に回るほど厄介なものはない』
『その原因は彼女のともだちだった』
『ルビネルが嫉妬のあまり落ち込んでいる』
私がアウレイスと面談している事実は教員を除くと、アウレイスと交流のあった彼女しか知らない。そして、今彼女の視点で物事を考えると……
『絶対的に信頼していた先生に、一目惚れした恋人を奪われた。しかも、嫉妬のあまりの恋人を傷つけてしまった。傷つけた恋人は過去に酷い仕打ちを受けており、ただでさえ暴力に弱かった。恋人は完全に先生に心酔してしまい、私は一人ぼっちになってしまった。親友であり恋人であるアウレイスに裏切られ、自らの師事していた教授にも裏切られ、最後に自分自身にも裏切られた』
そして、私たちの話を盗み聞きしたのだ。事実を確かめたくて……。
でも、私とアウレイスはやんわりとだが破局した。私たちが結ばれると思っていたルビネルにとってこれは予想外だったはずだ。
足音を追いかけていくと、たどり着いたのは屋上だった。摩天楼の美しい夜景を前に、一人ぼっちの少女が私に微笑みかけていた。黒い髪の毛と黒い制服が、暗闇に溶け込み、この世のものとは思えない幻想的な姿を描き出していた。
「ルビネル……止まりなさい。私が悪かった」
「いいえ?教授のせいじゃありませんよ?」
ルビネルはいつも研究室で話しているのと同じような口調だった。体はやつれているが、立ち振舞いも最近の鬱々としたものではなく、以前のように淡麗で生き生きとしていた。
「ルビネル、私も謝るから、戻ってきて!」
でも、彼女は柵の上にいる。屋上から落ちるのを防止するはずの柵。風が吹き付けるなか、彼女は生と死の狭間に存在していた。
「二人ともありがとう。お陰で私、目が覚めたわ。本当に……感謝してる」
まるで、解散前の歌手のコンサートのようだった。さみしがるファンに最後の言葉を投げ掛ける、悲しげな歌い手だ。そこに、私たちへの憎しみはない。
「タニカワ教授は純粋にアウリィを助けようとしていた。アウリィも無意識のうちにそんなタニカワ教授の気持ちに答えようとしただけ。なのに私は、勝手にふたりが裏切ったと思い込んでしまった。ちょっと考えればわかることなのに、自分のことで頭がいっぱいだった」
手を胸に当てて、腹から絞り出すような声で、ルビネルは続ける。
「女の子にイタズラして遊んでいる時もそう。アウリィと最初に寝たときもそう。私は自分のことしか考えてなかった。自分が気持ちよければそれでいいと、無意識のうちに思ってた。私はアウリィに酷いことをした人たちと変わらない。欲望のままにアウリィをおもちゃにして遊んでいただけなの。……あなたの気持ちなんかこれっぽっちも考えていなかった」
溢れ出す涙をルビネルは拭おうとはしなかった。売るんだ声を隠そうともしなかった。
「だってそうでしょう?あなたのことを考えていたら、あんな乱暴しなかった。出来るはずがなかった。タニカワ教授の気持ちを考えれば、嫉妬なんてすることはなかった」
嗚咽を押さえるために大きく息をすってからルビネルは言い放った。
「他人の気持ちを考えもしないような馬鹿は……死ねばいいのよ!」
私たちは思わずルビネルに駆け寄ろうとした!
「来ないで!これは私の問題よ!」
くっ、今は無闇に刺激してはいけない。
「私は……私は自分を殺したいほど憎い。醜悪で腐りきった自分がこの世に存在することそのものが許せない!不快なの!これまで私は人に迷惑をかけ続けて来た。そして、この私が……腐ったネズミの死骸にも劣る私が……生きているだけでどれだけの人に迷惑をかけるか想像もつかない」
ルビネルは深いため息をついた。宿敵を睨むかのような目で、自分の両手を見つめている。
「アウリィはあんなに悲惨な過去を持つのに、清廉潔白に生きている。私ははそれに比べたらずっと優遇されているのに、心は汚れどす黒い。私はそんな自分を決して許しはしない!」
手をゆっくりと握りしめる。肩が上がり、力みすぎて拳はおろか、全身が震えていた。
そして、からだの底から唸るような声を、ルビネルは絞り出した。
「……私はあなたたちが付き合っている、という確証を得たかった。毎晩学校に残ってどこかにいるはずのタニカワ教授とアウリィを探す日々。辛かったわ。わかっているとはいえ、動物みたいにあなたたちが抱き合っている姿を想像するだけで……涙が溢れてくるもの。でも、それでも知りたかった。あなたたちの関係を。それを見れば……ここから一歩を踏み出す勇気が湧くと思ったから」
ルビネルは柵の上で私たちを見下ろしていた。まるで女神が下界の民を哀れむような表情をしている。
「でも!何であそこで結ばれないのよ!折角死ぬ決意を固めようとしていたのに、あんなの……ずるい……。何で断ったんですか、タニカワ教授!」
ルビネルの頬を涙が濡らす。
私は喉の奥から声を張り上げた。
「正直言うと私は一度アウレイスの誘惑に負そうだった。でも、君のことを考えたら自然と手が止まった。私にとって、アウレイスを思い通りにすることよりも、君の心を救う方がよっぽど大切なんだ!」
ルビネルをアウレアスもどうにか止めようと声をかける。
「ルビネル、もう怖がったりしないから……一緒に帰りましょう?そんなに無理をして今死ぬ必要ないよ……」
私も声を大にして言った。
「ルビネル、頼む、死なないでくれ。私たちにとって君はかけがえのないこの世にたった一人の存在なんだ。もし君を失ってしまったら、私とアウレイスは二度と立ち直れない。自分のために生きられないのなら、私たちのために生きてくれないか!」
しかし、ルビネルはイヤイヤと子供が駄々をこねるような様子で首を振った。
「ごめんなさい、私は……恋人や教え子が苦しんでいるのに、ほったらかしにするような人の為に生きようとは思えない!」
ルビネルの言葉が私の心を深くえぐった。全くその通りだ。
どうすればいい。私は考える。
ルビネルがあそこに立つのにも相当な壁があったはずだ。あの場所へは何度も自問自答してようやくたつことが出来る。たがらさっきの質問にも即答した。私は頭をフル回転させて説得の言葉を考える。
『命を粗末に扱うんじゃない』は、命が大切だと考えているのはあくまで社会的な価値観だ。ルビネルの価値観とあっているとは思えない。
『死んだあと報われない』も思い付いたが、ルビネルはそもそも死後の世界とかに信じてない。この世を去ることが先決なのであって、死後のことなんか考えていないし、考える余裕もない。
『この世には死ぬ定めにあっても生きたいと思っている人がいるんだ』と言って不幸のくらべっこをしたところで、なんの意味もない。無駄だ。一蹴される。
どうすればいい?世の中には楽しいことがまだ、沢山あるとでも言えばいいのだろうか?
「私は……」
アウレイスは一歩だけルビネルに近付いて、ポツリポツリと話始めた。
「私は弱い。ルビネルも知ってるよね。過去のトラウマを言い訳にして、人に心を開かない……。これ以上傷付きたくないという自分本意の我が儘な自己防衛」
「でも、それごと全部、弱い私のまま受け入れてくれたのはルビネルが初めてなの。皆だってとても優しくしてくれたわ。でもそこには必ず『強くなれ』『克服しろ』というメッセージが付いてくる……。正直、プレッシャーでしかなかったわ。貴女だけなの!私を過去ごと受け止めてくれたのは!」
「好きよ、愛してるわ、ルビネル。でもだからこそ、愛する貴女を殺してしまうなんて、弱い私には耐えられない。だから、貴女を殺してしまう前に……先に逝かせてくれない?教授、ごめんなさい。まさか目の前で二人も死ぬなんて、酷い経験だと思うけど、教授は大人だから大丈夫よね?」
私は顔に右手を当てて「やはり、そうなるのか……」と呟いた。
一方、ルビネルは目を見開いて固まっていた。本気で驚いている様子だった。
説得が無理だとわかったとき、アウレイスがとる行動は大体予想がついていた。彼女にはそれを実行するだけの決断力と行動力がある。
唇を噛み締めた。言葉を捻出しようにも、とうとう感情がそれを上回ってしまった。
視界が潤んでいる。
「やめてくれ……お願いだから……。私は人として君たち二人とも好きなんだ。私は君たちを喪いたくない。もっとも、これは説得でもなんでもない、私のエゴだ……が」
私の横でアウレアスは続ける。
「ルビネルはすごいわね。こんな場所に平気で立ってるなんて。私はダメ。心は決まっているのに、脚が震えて立っていられないわ。ねぇルビネル、私は死後の世界なんて信じてはいないけれど、それでももしそんなものがあるのなら、そこでも貴女と、逢いたいな……」
「アウレイス!」
初めてルビネルは感情の高ぶりを見せた。信じられない、といった様子で叫んだ。
「あなたにはタニカワ教授がいるじゃない。あなたまでこっちに来る必要はないのよ?アウリィやめて、あなたの死ぬところのなんか見たくない……」
「ルビネル、今の私たちは君と同じ気持ちなんだ。大切な人に死んでほしくない、死ぬところのなんか見たくない、その一心なんだ!」
「驚いた、ルビネルもワガママ言うのね。でもお互いに『遺されるのは嫌』じゃどうにもならないわ。そうだ、ねぇ、一緒にというのはどう?抱き合ったまま落ちるの。キスしながらというのも悪くないわね。ふふふ。……もしくは、次の機会を待って一度引き下がるか……どうする?」
ルビネルは自らの唇に手を当てて押し黙った。
「……そうね」
長い沈黙のあとルビネルの口が開いた。
「抱き合ったまま落ちるのも悪くないわね。……でも、それだとタニカワ教授がかわいそうだわ。あの人、この世に未練たらたらだから私たちと一緒に来ようなんて思わないわ。彼一人をを残してこの世を去るなんて、私にはもう出来ない。タニカワ教授の気持ちを考えたら……」
成長したな、ルビネル……。
「……次の機会を待ちましょうか。……ここにはいつでも来れるんだし」
ルビネルは柵の手前にふわりと着地した。音もなく、静かに。
救われた。
私はその場に泣き崩れた。おいおいと声をあげて、まるで子供のように泣いた。
よかった、よかった。ただただ安堵の言葉が私の頭のなかで山びこのように反響していた。
「帰りましょう、タニカワ教授」
ルビネルとアウレイス、二人にそう言われ、私はゆっくりと立ち上がった。
ハンカチで涙を拭う。
「そうだな。明日の学校は休みなさい。私が学校に掛け合うから。アウレイス、エウス村長には失礼のない程度に誤魔化しておくから、安心しなさい」
私は二人に優しく微笑みかけた。ごめんなさいを言おうとしたルビネルに首を横にふった。
「謝らなくてもいいよ。その代わり、今回みたいに悩みを自分で抱え込まないこと、それを約束してほしいんだ」
「……わかりました。ありがとうございます」
私は次にアウレイスと向かい合う。
「アウレイス、ルビネルはいつも強気に振る舞っているけど、本当はとてもか弱い子なんだ。だから、友達として彼女を支えてほしい。頼めるかな?」
「私たちは友達じゃ……」
口を挟もうとしたアウレイスの頭に手を置いた。
「まずは友達からだ。お互いのことをよく知ってから付き合うんだ。わかったね、アウレイス」
「……はい。タニカワ教授」
私ははっとして口を押さえた。
「つい教員としての癖が……上から目線に……」
ルビネルが久しぶりの笑顔を見せてくれた。
「教授はその方が似合ってますよ」
そんなルビネルにアウレイスが妖艶な視線を送っている。銀髪と黒髪が交差しそうな程、ルビネルに近づいて囁いた。
「ねぇ、ルビネル?今夜お願いできる?」
私はあきれた顔で「ちょっと待て今の私の話聞いていたか?」、と呟いた。
アウレイスの言葉にルビネルは恥ずかしそうに体をくねらせる。
「ごめんなさい、アウリィ。体が戻るまでちょっと待って」
上目使いのルビネルに対して、「じゃあ、一緒に体を作っていこうか」と自然な動作でルビネルの口に指を入れるアウレイス。
はぁ、この二人は……。あきれてものも言えないはずなのに、私の口は微笑んでいた。ほほえましい。
私は彼女たちを家に送った。そのあとは何事もなく自宅に帰り、風呂に入り、寝た。
翌日は普段通りに起き、普段通りに授業し、普段通りに研究室で自分の課題をこなし、いつも通り帰宅した。
何のへんてつもない日常ではあるが、私は確かに幸せだ。
明日は二人が学校に来る。さて、挨拶のあとに二人にどう声をかけようか。
布団のなかで考えているうちに、私は眠りに落ちていた。
終