月下香 ~白い花園~ 下
14
転落
それからというもの僕は自堕落に日々を過ごした。ルーニャに仕事奪われたショックと積み上げてきた地位が全て崩れた喪失感のために、全てにおいてやる気をなくしていた。一日中目的もなくフラフラ散歩しているような状態だった。家にいるときは隣り合って咲いている白バラと月下香のずっと見つめている。夜になったら会社帰りのルビーに会いに行く。そんな毎日だった。僕は今日も花の手入れをしてから散歩に踏み出した。
「おはよう、ルーニャ。」
駅前の花屋で座り込んで花弁を見つめる彼女に、僕は平生と変らぬ口調で話しかけた。ルーニャは僕の声にありが這うようにゆっくりと僕の方に顔を向けた。少しずつあらわになっていくルーニャの顔は、今までの彼女とは別人のようだった。
「・・・あなたに、何があったの?」
声も猫耳もしおれていた。目には深い隈が刻み込まれ、生気を失っている。僕は全てを察し仏のような笑みを浮かべた。
「いいや。何もなかった。それよりルーニャの方が心配だ。顔色が悪い」
僕はひたすらルーニャに、卑屈も皮肉も全くない慈悲の言葉をかけた。本当に純粋な善意からの行為だった。でも、ルーニャは僕に対し疑いの目を向けてくる。
「・・・アタシのせいで__は仕事を・・・」
「いいや。あれは会社が勝手に決めたこと。ルーニャは何も悪いことをしてない。だから、今日も仕事を頑張って。ルーニャならできるよ。先輩としても、親友としても、応援しているから」
ルーニャの唇が微かに震えた。
「アタシは、__といっしょに働きたかったのに・・・。そのためだけに会社に入ったのに!__の隣にいたかったのにぃっ!いやだ、そんなのいやにゃあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁっ!」
ルーニャは戸惑う僕に思いっきり抱きついた。僕の骨がきしむのを感じた。
「前、花屋であなたと会ったときアタシはうれしかった!人生でこれまで感じたことがないくらいうれしかった。これでずっとずっと__の隣にいられるって。でも、アタシのせいで__は会社をやめさせられた!なんで!?わけ・・・わかんない」
少女は全身を震わせながら、僕の胸に嗚咽を漏らした。冗談とは思えなかった。かといって、僕の傍にいるためにルーニャがそこまでする理由もわからなかった。僕はこれ以上公共の場にルーニャの悲惨な姿さらすのに耐えられなかった。
ルーニャを家まで連れて行った。家に帰るまでの間、僕たちは一言も言葉を交わさなかった。
15
優しく問いかけた
「なんで、そこまでしたの?ルーニャ?」
本棚のひしめく中、僕は最大の疑問を最初に放った。ルーニャは力なく驚くと、僕に笑みを向けてきた。すごく自虐的で哀しい微笑みだった。
「__。少しはアタシの気持ち考えるとか、してみたらどうなの?」
今の僕には頭を回転させて正しい答えを導くような力は残っていなかった。
「ごめん、わからない・・・。」
僕は率直な意見を口にした。そしたらルーニャは意外にも傷ついた様子はなく、「じゃあ、ルビーの気持ちも?」と聞いてきた。僕は予想外の質問に驚きを隠せなかった。ルーニャはゆっくりと言葉を続けた。
「この間も、その前も、ルビーといっしょに夜を越していたんでしょ。窓から思いっきり見えた。」
みっ・・・見られてた!あの、二人だけの甘い時間をっ!僕は自分とルビーの用心のなさに後悔した。それと同時にルーニャがそれまでルビーと僕の関係を知らなかったことに強い違和感を覚えた。何かがおかしい。
「いいの。__は何も分からないんだもんね。わけのわからないままそうなったんでしょ」
ルーニャの言葉はぽつぽつと独り言のように口からこぼれていった。一言つぶやくごとに少女の顔が徐々に融解して行った。
「何も分からないなら、教えてあげる。アタシの思い」
ルーニャはゆっくり後ろを向いた。彼女の視線を追っていくと、そこには凛と咲く白バラがあった。
「花屋さんは白バラの花言葉、『純粋』って言ってたでしょ?実は他にもあるの。」
ルーニャは再び僕に向き合うと、まるで我が子を見る母親のような表情を見せた。
「『私はあなたにふさわしい』」
ルーニャは静かに僕の頭に両手を乗せた。
「身をゆだねて、力を抜いて。アタシが全部包み込むから。」
そのまま僕の頭を太ももへ導いていく。僕は半ば夢心地で寝ころび、ルーニャに身を任せた。心地よい温かさが頭から全身に伝わっていく。目の前に月光に照らされた猫娘の清純な笑顔。
「目を閉じて、何も心配ないで。まどろみに身を任せて。安心していいから。大丈夫、__にはアタシがついてる。」
額に優しい掌が添えられた。ああ、そういうことか。僕はルーニャの膝枕の上でようやく何が起きているかをようやく理解した。
「ルビーとルーニャは・・・」
言いかけたとたん口をふさがれた。
「・・・ルビーのことは忘れて、にゃ。」
僕はその手のひらを払いのけることもなく瞳を閉じた。ああ、この枕・・・最高だ。
その時、手に何か薄いものが置かれた。少し眼を開けて見てみると、それは封筒だった。「金一封」。小さくそう書かれていた。
16
鏡に映った顔が死人に見えた
僕たちは後戻りできないところまで来てしまった。僕は一日中家の布団に閉じこもり、本すら読まず悶々とする日々。夜になったら二人と戯れる。一方、ルビーとルーニャは親友を裏切った罪悪感と裏切られた失望感と気の狂うような恋愛感情でズダズダになっていた。精神崩壊の寸前で僕にすがってようやく自我を保っている状態だ。彼女たちはなんでもしてくれた。家事から下々の世話まで、全て。僕に捨てられないために。
僕はこんな可哀想な二人のシンデレラのうち、片方を捨てるなんてことはできない。ルビーは僕に甘くてとろけるような快楽を僕に与え続ける。ルーニャは全てを包み込むような母性を捧げてくれる。彼女たちは僕に唯一生きている実感を与えてくれた。気がつくと僕ももう、彼女たちを手放せなくなっていた。
果てしなく続く苦しみの中、月下香と白バラが跡形もなく枯れてしまったころ、一本の電話がかかってきた。僕は暗闇の中後ろで死んだように布団にくるまっている二人をちらりと見てから、壁掛け電話の受話器を取った。
「よう、__。夜遅くにすまん」
どうやら赤崎のようだ。その声から微かな希望の光を感じた。そうだ、赤崎ならこの状況をどうにかする答えを知っているかもしれない。とりあえず、相手の用事を聞いてみよう。
「何かあったのか?赤崎」
その、赤崎という言葉を発した瞬間、後ろから奇妙な気配がしたような気がした。
「実はな、別れた恋人にもう一度謝りたくてな。仲介役をお願いしたいんだが。お前と仲のいい、ルーニャという女性なんだが」
僕は細かいことを考える前に返事をすることにした。
「ごめん、今はちょっと取りこんでいて。どうしても無理なんだ」
赤崎は「そうか、ルビー関係だな?」と意味深げに聞いてきた。
「まあ・・・」
「ならいい。オレに住所を聞いてきたくらいだ。大切にしてやれよ」
そう言って赤崎は一方的に電話を切った。僕は一息ついた後、背後で棒立ちしている二つの陰に満面の笑顔で問いかけた。
「ねぇ、赤崎と何があったの?」
闇の中から恐怖に震えた声が答えた。
「住所を聞いて、そのあと__を口説くのに協力してもらったの・・・」
「愛していた。大好きだった。でも・・・今は・・・」
僕はゆっくりと思考した。
ルビーが喫茶店を早々と出た理由を僕に言わなかったのもこれで合点がつく。おそらくルビーは赤崎に僕を口説くための方法を教わっていたんだ。どおりで初対面なのに話が合うと思った。
そういえば、ルーニャはルーニャで偶然にしてはあまりにもうまくできすぎている再会だった。おそらく彼女が意図的に仕組んであのタイミングで話しかけたのだろう。つまるところ、ルーニャを暴走に導いたのも、ルビーが僕に誘惑したのも、全部赤崎が発端だったんだ。
「プッ。」
思わず吹き出してしまった。僕は何を期待していたのだろう。この世に救いがないことは僕自身が一番わかっているのに。僕は無言で布団に戻っていった。
赤崎の電話がきっかけで、僕たちの関係はさらに悪化した。もう、この世に信用できる人は存在しないと悟ったからだ。親友も家族も愛する人もそして自分自身も。今では二人と目を合わせるだけで互いの瞳から涙が滴るようになっていた。一言も言葉を交わさない。どうにもならないことをお互いわかっているから。まさに、地獄。
17
絶望に底はない
この危うい三角関係はとうとう終わりを告げた。ルビーが自殺したのだ。
今でも忘れられない。唯一、その日だけルビーは僕の家に来なかった。変な気がしてルーニャとルビーの家を訪ねた。扉は開けっ放しになっていて部屋の中を覗くと、傷一つない黒い髪をもつ白い人形横たわっていた。
遺体のすぐそばに置かれていた遺書には、僕を誘惑してしまったことへの謝罪とルーニャへの懺悔、そして後始末等について書いてあった。しかし、最後のページに書きなぐったような荒い字でこう書かれていた。
「私は卵子バンクに登録しています。ルーニャ、もしできるのなら私と__の子を産んでほしい。それが私の唯一の願い。」
ルビーはルーニャに代理母出産をお願いした。つまり、ルビーの言うとおりルーニャがその子を産めばルビーとルーニャの二人が母親ということになる。おそらくこれが三人が幸せになるためにルビーの出した結論なんだろう。
ルーニャと僕は自分のことしか考えていなかった。でも、ルビーは僕たち二人のことを考えていたんだ。情けない、悔しい、哀しい、嘆かわしい・・・僕の心は涙におぼれ窒息しそうになっていた。隣からぽつりと声が聞こえた。
「アタシ、ルビーと__の子供、産むにゃ。」
数ヵ月後、ルーニャはその言葉通り体外受精によって僕とルビーの子を身ごもった。僕はルーニャが出産のために退社したポジションに入れ替わりで再就職し、それこそ死ぬ気で働いた。ルーニャのおなかの中にいる赤ちゃんは僕たちの最後の望みであり希望だ。絶対に絶やしてはならない。皮肉なことにルーニャが子供を産むまでの数ヶ月間僕たちは「幸せ」だった。
出生前診断で女の子だということが分かった。僕らはルビーとルーニャのように美しく優しい女の子に育ってほしいという意味で、ルーニャの名字とルビーとよく似た宝石の名前から「スピネル・フリージア」と名付けることにした。
でも、この偽りの幸福も長くは続かなかった。
ルーニャは今までの疲れやストレスで心身ともに限界に達しようとしていのだ。出産予定日が近づくにつれてやつれていき、食事すらまともに食べられなくなった。そして分娩の時、帝王切開の大量出血に耐えきれずショック死してしまった。
娘は生まれた直後にルビーの親族に取り上げられた。『誰が人殺しに孫を育てさせるかっ!』結局、娘を目に収めることすらできなかった。
ルーニャの両親は『ルビーとルーニャが死んだのはお前のせいだ!』と、僕と僕の家族に対して多額の賠償金を請求してきた。
それを知った僕の家族は「生き恥さらし」と言って僕のことを絶縁した。
18
.笑顔を思い出すだけで幸せになれるから
ルビーが枯れた冬が来た。
親友に見限られ、家も追い出され、家族には見捨てられ、愛する人とは死別した。最後に残ったのはポケットの中の折れた白バラの茎と枯れた果てた月下香の花弁だけ。それすら、どこかになくしてしまった。僕は今、ぼろぼろになってしまった衣服をまとって真冬の深夜の町を放浪している。
自分の体がまるで氷になってしまったかのように冷たい。四肢の感覚もすでに麻痺していた。急にめまいがして、崩れそうになった体を何とか立て直す。
視界に白いふわりとしたものが映った。暗い空から降り注ぐ月下香の花弁だった。いつの間にか夜の街は跡形もなく消え去り、白バラが地平線まで咲き乱れていた。どこまでも孤独で冷たい世界。
この世で僕が今存在していると知っているのは僕だけだ。僕以外、誰も僕の行方を知らない。今ここでのたれ死んだとしても身元不明の死体として集団墓地に埋葬されるだけだ。僕は全てに見捨てられたんだ。
ああ、なんでこうなったんだろう。僕はルビーとルーニャと友達でいたかっただけだった。
なのに・・・なぜ・・・あんな醜い関係になってしまったんだろう。いつから僕はルーニャを疑うようになった?どこで僕とルビーの歯車が狂った?何がこの悲劇を招いた?
僕は答えを知っている。全部僕が悪いんだ。ルビーも、ルーニャも、赤崎も誰も悪くない。身から出た罪悪。
僕はとうとう体を維持できず、花畑に突っ伏した。目の前に淡く輝く白バラ。僕はそれを握りしめた。パキッと言う音が虚空に散った。折れた白バラの花言葉は確か・・・『純潔を失い死を望む』。今の僕にぴったりだ。僕は全てを奪われ死ぬのだ・・・。
いや、まだ一つだけ残っていた。そうだ、この状況もまんざらじゃないか。希望はある。まだ娘がいるじゃないか。彼女の心臓は今も動いているだろう。僕が長生きすれば、ひょっとしたら何かの拍子に一目見ることができるかもしれない。ルビーもルーニャも見ることのできなかった最愛の娘、スピネルに。
僕は娘が生きていると知っている、それだけで十分だ。この世にはルビーとルーニャのように自分の子の生死すら分からないまま死んでいく親がごまんといる。そういう人たちと比べれば、僕はなんて幸せ者なんだ!スピネルが僕の幸福。僕の希望。僕の命!そう思うと何もない場所から力が湧きあがってくるような気がした。
僕はまだ生きている!見捨てられようがなにされようが関係ない。僕は生きて、スピネルに会う!僕は体の奥底から力を振り絞って立ち上がった。全身の痛みや倦怠感も今では心地よい。それが僕の生きているあかしだから。
追い風でバラと月下香の花弁が後ろから前へ流れていく。ルビーもルーニャも応援してくれているんだ!
僕はバラ畑のずっと先にある一寸の光に向かって一目散に走り出した。
19
花園のシンデレラ
スーツで文化祭に来ているのは僕ぐらいか。金銭的な事情でスーツしか外に着ていけるものがないからしょうがない。
来訪者受け付けを「地域にすんでいる人」としてやり過ごした。そして、フラフラと1-Aの教室に足を運んだ。出し物は・・・喫茶店、か。
きれいに装飾されたテーブルに着き、巡回している店員もとい学生にコーヒーを注文した。周囲の生き生きと自分の役割をこなしている生徒を見ていると、自分がいかにすさんでしまったのかよくわかる。
僕はかばんから「グリム童話」を取り出した。窓からの日差しが暖かい。
「あの・・・胸に挿しているお花、白バラと月下香ですよね。」
僕は本から目を離さずに答えた。すぐ隣に誰か経っている気配がする。
「ええ、よくわかりましたね。これが精一杯のおしゃれなんです。」
僕はお花に詳しい学生もいるもんだと感心しつつ、顔をあげた。
その時の僕の反応はルビーの死体を見たときと同じだった。あまりの衝撃に息ができなかった。
「わたしのおとうさんとおかあさんの愛した花ですから。」
頭の中をずっと支配していた二人の面影がそこにはあった。ルビーの漆黒の長髪、ルーニャの慈愛に満ち溢れた瞳。
スピネルが生まれて初めてであった父への娘としての最初の言葉は「ずっと会いたかった」とか「これは現実?」とかそういった出会いを喜ぶような言葉ではなかった。ましてや今まで自分の前に姿を現さなかった父への恨みの言葉でもなく、至極ありきたりな、平凡な言葉だった。
「おつかれ。」
僕の頬に一筋の涙が流れ落ちた。
それを境に何かが崩壊したかのように瞳から涙が流れてきた。手で押さえつけても涙があふれてくる。ルビーとルーニャが死んでから止まっていた僕の心。それが十数年ぶりに動きだし、溜めこんでいた感情を一気に噴き出した。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あぁぁぁ!!!」
僕は心の底でずっとこの一言を求めていた。孤独だった。つらかった。さびしかった。哀しかった。居場所がほしかった。赦してもらいたかった。誰かに自分の存在を・・・認めてもらいたかった。
「とまれっ!とまれぇ!とまれぇぇぇぇぇ!!」
どれだけ娘の前に姿を見せるときのための練習をしたかわからない。表情やポーズまで考えて、いかに自分を父親らしく見せるか努力したことか。スピネルに醜態をさらすわけにはいかない。娘だけには見放されたくない。そう思って必死に練習したのに!
今の僕は自分で描いた想像とはかけ離れていた。娘の成長を見て人目はばからず号泣する、ただの父親でしかなかった。
「だめなんだ、ここで泣いちゃだめなんだぁ!うわあああ!」